ブックタイトルm26_2014021010000_mimata_k_h2602
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横瀨さんが野球を始めたのは小学3年から。三股小学校のグラウンドでやっているサッカーの練習を見に行ったところ、同じ場所で練習している野球に心ひかれたという。ポジションは、最初からずっと「投手」。当時の横瀨さんは、どんな子どもだったのか。「負けず嫌いで、常に相手打者を上から見下ろす気持ちで投げていました。今でもその性格は変わっていません」左投げの横瀨さんだが元々、右利き。箸や鉛筆は右手で握る。練習時、左右両手で投げているうちに、左投げがしっくり来るようになったと話す。そして小学6年の時に、三股ブルースカイに入団。そこで浅井俊博監督から、「洗濯や掃除など、身の回りのことは自分でやれ」と言われ続けた。横瀨さんは、その言葉一つ一つを今でもはっきりと覚えている。「野球の技術だけでなく、一人の人間として必要なことを学びました。現在、寮生活を送っているので、当時の指導が非常に役立っています」その後、三股中を経て、延岡学園に入学した横瀨さん。そこで待っていたのは、想像を絶する「野球部の練習量」だった。「本当にきつい練習でしたが、野球部の仲間と支え合い、乗り切ることができました」そして感謝の心も芽生えた。「三股の実家を離れ、寮で暮らしていますが、離れて初めて、親のありがたさを痛感しました。そして何とか皆の期待に応えたいと思うようになりました」月日は流れ、高校3年夏、甲子園進出を懸けた宮崎大会→←決勝?。サンマリンスタジアム宮崎のマウンドに立つ横瀨さんは、何度も「おかしい」と首をひねっていた。「あの試合では、なぜかコントロールが制御できなくて...。仲間が点を取ってくれているのに、すぐ追い付かれて...。ふがいない投球をしてしまいました」そんな横瀨さんを立ち直らせたのは、延岡学園野球部の重本浩司監督だった。「重本監督から『何をやっているんだ!』と一喝されました。おかげで気持ちを切り替え、後続を抑えることができました」そして迎えたゲームセットの瞬間。胴上げ投手となった横瀨さんは、仲間と抱き合い、喜びを爆発させた。3年間の努力が結実した歓喜の瞬間だった。この試合が今夏の一番の思い出だ、と横瀨さんは語る。「『負けたら終わり』という緊張の連続の中、最後にみんなと喜びを分かち合うことができて、本当に幸せでした」そして宮崎県代表として、高校球児の聖地「甲子園」に乗り込んだ横瀨さん。準決勝で完封勝利を収めるなど、チームのエースとして大車輪の活躍を見せた。「初めて甲子園に入った瞬間、鳥肌が立ち、特別な場所なんだなと実感しました。最初は緊張しましたが、次第に暑さや疲れを感じなくなりました。とはいえ、決勝では気持ちに体が付いていかなかったのですが...(笑)」惜しくも全国大会優勝は逃したものの、自分たちの力を出し切ったという充実感と高揚感があった。高校卒業後、神奈川大学に進学する横瀨さん。大学野球部では、明治神宮野球大会優勝を目指し、チームの力になりたいという。好きな言葉は「強気」。目標とする田中将まさ大ひろ投手のような「気迫を前面に押し出す投球スタイル」に、さらなる磨きをかけたい?。希望に満ちあふれた18歳の新たな一歩が始まる。横瀨貴広(よこせたかひろ)さん延岡学園高等学校在学。第95回全国高校野球選手権大会に宮崎県代表として出場し、チームのエースピッチャーとして、県勢初となる準優勝に貢献。三股町上米出身。18歳。身長176センチ、体重80キロ。左投げ左打ち。「強気」の文字が入る横瀨貴広さんのサインボール三股ブルースカイ所属時の横瀨貴広さん三股ブルースカイ監督浅井俊博さん広報みまた2014.25