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概要

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発行/えびの市役所編集/企画課情報係宮崎県えびの市大字栗下1292番地?0984?35?1111 URL http://www.city.ebino.lg.jp/太鼓踊の起源えびの市内には多数の太鼓踊が継承されています。主なものには、大太鼓踊や輪太鼓踊、三段打分太鼓踊などがあります。これらの踊りは、いつごろ始まったのでしょうか。太鼓踊の起源には、二つの説があります。一つは、戦場で兵の士気を鼓舞するために始まったという説です。朝鮮の役に出兵した島津義弘の軍勢が、泗しせん川の戦い(一五九八年)で、一万の兵で二○万の明みんの大軍と対戦しました。島津軍は鉦かねや太鼓を打ち鳴らし、矢旗の中に刀と槍を隠し敵陣に攻め入り、大勝したと伝えられています。この勇壮な様子を舞踊化したものが太鼓踊の始まりというものです。もう一つは、鹿児島の姶良で始まったという説です。いまから四百年前の慶長十一年(一六○六年)、島津義弘は平松城(姶良)にいました。当時、江戸でコレラが流行し、駿河の念仏踊が江戸市中を練り歩いたところ、猛威を振るっていたコレラが終息しました。平成25年1月20日発行?1711義弘はこれを聞き、家臣の中から二人を派遣し、念仏踊を習得させました。その念仏踊に改良を加え、振り付けをして太鼓踊を完成させたというものです。この太鼓踊は、朝鮮の役の凱がいせん旋祝いとして義弘の前で踊られたということです。その後、踊りは近隣の加治木や栗野などに伝えられていきました。ところで、栗野の太鼓踊では、歌詞の中に「高こうらいこく麗国」や「西田殿と町田殿」、「十四の城を取り構え」、「諸国大名船揃え」といった言葉があります。同じ言葉が、栗下の輪太鼓踊の歌詞にもあり、栗野から伝承されたと考えられます。また、えびの市内の太鼓踊の中には、江戸時代の終わりごろから明治の初めにかけて、西にしめ目地方(加世田、川辺など)から市内に移住した人たちによって伝授されたものもあります。市内には、太鼓踊の他にも色々な伝統芸能が残されています。各地区で継承されている踊りを末永く守り伝えていきたいものです。(文/えびの市歴史民俗資料館)写真:栗下輪太鼓踊