ブックタイトルm21_20120514140203_shiseiyouran
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1位置と地勢?本市は、宮崎県南部に位置し、宮崎市、三股町、都城市、串間市に接しています。市域の東側は日向灘に面し、その海岸線が「日南海岸国定公園」に属しています。一方では、北西部に標高1,000m級の小松山や男鈴山などを有し、8割弱が林野でそのほとんどがオビスギの人工林で占められています。?2面積?面積は536.12km 2であり、林野面積が占める割合は78.0%、可住地面積は22.0%となっています。また、可住地面積に占める耕地面積の割合は24.4%です。?3気象?本市の気象は、太陽と海、みどりの山々に象徴されるように温暖多照の気候条件です。平野部では一年の日照時間が平均2,200時間以上と多く、南海型気候区に属する高知県・紀伊半島南部などとともに日本で最も日照に恵まれた地域の一つであり、温暖な地帯に属しています。特に冬季の日照時間は大変長く、冬型気圧配置で山沿いが曇っていても平野部は晴れている場合が多くなります。?一方で鰐塚山系を含む本市は、降水量が年間3,000mmを超える多雨地域で、四国の太平洋岸、紀伊半島の東部とともに日本の最多雨地帯となっています。?4沿革?本市は古くから「飫肥」と呼ばれており、早くも平安時代の「倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」には宮崎郡飫肥郷として現れています。南北朝期には、島津荘の寄郡として飫肥北郷、飫肥南郷が興福寺一乗院の所領でした。?中世における「飫肥」の油津や外ノ浦は、南九州を代表する港として、琉球を通じて東アジア全体と交易を行っていました。この地を支配していた島津氏と、その利権を狙う伊東氏とは長年にわたって戦を繰り返していました。戦国時代に日向国の大半を支配した伊東義祐が飫肥の攻略に失敗した後、その次61NICHINAN