ブックタイトルm21_20120514140203_shiseiyouran
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飫肥に伝わる伝統文化四半的?飫肥に伝わる半弓の競技で、飫肥に伝わる半弓の競技で、的まで四的まで四間半、間半、弓と矢が四尺五寸、弓と矢が四尺五寸、的が四寸五分で的が四寸五分であることから四半的と呼ばれ、あることから四半的と呼ばれ、座ったま座ったままの姿勢で射るのが特徴です。まの姿勢で射るのが特徴です。平成三年平成三年八月一日、八月一日、市の無形文化財に指定されま市の無形文化財に指定されましたした。市民の間では四半的愛好家が多く、市民の間では四半的愛好家が多く、競技大会なども開催されています。技大会なども開催されています。また、また、飫肥を訪れた人が気軽に体験できる場所も肥を訪れた人が気軽に体験できる場所もあり、あり、初めての人も楽しんで矢を射てい初めての人も楽しんで矢を射ていますます。飫肥に伝わる半弓の競技で、的まで四間半、弓と矢が四尺五寸、的が四寸五分であることから四半的と呼ばれ、座ったままの姿勢で射るのが特徴です。平成三年八月一日、市の無形文化財に指定されました。市民の間では四半的愛好家が多く、競技大会なども開催されています。また、飫肥を訪れた人が気軽に体験できる場所もあり、初めての人も楽しんで矢を射ています。南郷に伝わる伝統芸能榎原神社と神楽?榎原神社は、榎原神社は、江戸時代初期の万治元年江戸時代初期の万治元年(一六五八一六五八)に、に、飫肥藩の鎮守として、飫肥藩の鎮守として、鵜戸鵜戸神宮からの分霊を祀り建立したものです神宮からの分霊を祀り建立したものです。拝殿を入母屋屋根とし、拝殿を入母屋屋根とし、正面に千鳥破風、正面に千鳥破風、その前面の向拝に唐破風を設けてありまその前面の向拝に唐破風を設けてあります。す。拝殿、拝殿、相の間、相の間、神殿をつなぐ平面は八神殿をつなぐ平面は八幡造りのままですが、幡造りのままですが、正面の姿は権現造正面の姿は権現造りです。りです。屋根の複雑さから八ツ棟造りと屋根の複雑さから八ツ棟造りとも呼ばれています。も呼ばれています。鐘楼は昭和五十四年鐘楼は昭和五十四年五月十一日、五月十一日、本殿は昭和五十八年一月二本殿は昭和五十八年一月二十一日、十一日、桜門は平成十四年三月二十八日桜門は平成十四年三月二十八日に県有形文化財に指定されましたに県有形文化財に指定されました。三百五十年余りの歴史を誇る由緒ある三百五十年余りの歴史を誇る由緒ある神社で、神社で、古くから縁結び、古くから縁結び、安産、安産、家内安全家内安全祈願の神様として親しまれています。祈願の神様として親しまれています。例祭は十一月八日祭は十一月八日・九日、九日、縁日祭は三月十五縁日祭は三月十五日・十六日で、十六日で、榎原神社大祭のおり、榎原神社大祭のおり、神楽神楽舞が奉納されます舞が奉納されます。榎原神社は、江戸時代初期の万治元年(一六五八)に、飫肥藩の鎮守として、鵜戸神宮からの分霊を祀り建立したものです。拝殿を入母屋屋根とし、正面に千鳥破風、その前面の向拝に唐破風を設けてあります。拝殿、相の間、神殿をつなぐ平面は八幡造りのままですが、正面の姿は権現造りです。屋根の複雑さから八ツ棟造りとも呼ばれています。鐘楼は昭和五十四年五月十一日、本殿は昭和五十八年一月二十一日、桜門は平成十四年三月二十八日に県有形文化財に指定されました。三百五十年余りの歴史を誇る由緒ある神社で、古くから縁結び、安産、家内安全祈願の神様として親しまれています。例祭は十一月八日・九日、縁日祭は三月十五日・十六日で、榎原神社大祭のおり、神楽舞が奉納されます。よわらNICHINAN 10