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概要

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春田蒼曳くん【平成2年2月2日生まれ】(矢形的)純一さん・さゆりさんの次男菊池彩ちゃん【平成2年3月4日生まれ】(大人東)修二さん・庸子さんの長女町史編集事業(日之影町史1から11巻)で、それぞれの分野にわたり詳しくまとめてありますが、刊行されている町史の内容も含め、紙面の都合上掲載されなかったものを連載していきます。やかたのまと?矢形的?大瀬川左岸の山腹にあり、矢形的・谷下・尻払の三集落からなっている.、矢形的の地名の由来については、次のような言い伝えがある。その昔、肥後守菊池氏の一族の「やかたーと言う武士が、この地に来て居を構えたと言われるが地名は人名ではなくなま邸宅の跡1館の跡」が訛って矢形的になったのではないか。また、矢形的神社横に的が置かれ、尻払からその的に弓矢が放たれたのでその地名がついたとも言われている。出矢形的集落また、集落にこの武士が所持していた大小の刀があり、集落民は「矢形様」と言って大切にしていたが終戦時に連合国進駐軍地の命により没収されたが銘刀であったらしく、今に惜しまれている。集落民のほとんどが以前は農林業に従事していたが、現在は専業の農林業者は少なく、他に職を求めている家が多い。平成九年の統計によれば世帯数二十戸、人口五十九人の集落であったが、平成二十二年の統計によれば世帯数十七戸、人ロ三十六人の集落になっている。六地蔵瞳条落車に央の高台に薬師地堂跡に高さ百六十三センチの六地とんノえのえさる栽植があり、元文為庚猿年三月十五日の刻字が見られる.昭和十年に大火があり六体の木像が焼失し、集落十二・戸のうち十戸が焼失したと言われている。六地蔵憧にあった鰐ロが公民館に保管されているが由緒は明白ではない、銘帯に奉施入熊野権現御宝ひのとうし。可鰐ロ、応、水四年丁丑林鐘一白願主廣円の刻字が見られる。また、松の原(通称屋敷跡)から陶製の壷から中国・朝鮮製の備蓄銭(古銭)四千百八十二枚が発見されたが、その由来は明白ではない。その他、さんごうあと西南戦、争薩軍の新手壕跡などが集落の上方に見られる.おばらい?尾払?尻払は二戸で人ロ十人で矢形的と大瀬集落に属している.以前は農林業に従事していたが、現在は他に職を求めている。尻払は水利の便に恵まれず、尻払谷に水源を求め千五百メートルのパイプで導水している。釈迦堂民家上の台地に釈迦堂があり、釈迦如来座像と立像が安置されている。祠堂の創立はひのえいぬ棟札によれば、宝永三丙戌九月になっており今から三百四年前に建立されたことになる。また、、境内には樹齢不詳の白椿も見られ、釈迦像二体・棟札・白椿は平成五年・十二月四日に町の有形文化財=二号に指定された。平成七年から八年にかけて堂改修の協議がなされ、改修用木材経費などは地区住民の協力により平成九年、五月に新しい釈迦堂が完成した。旧暦二月五日の釈迦誕生日と四月八日の命日には以前は祭祀供養が行われ、村内外から多くの参・詣者で賑わっていたと言われている。*応年四年(=二九七)ハ=戸年前元文五年(一七四〇)二七〇年前斬干・壕:兵士が身をひそめる溝白つぱき詳しいことは-町史資料、編・村の歴史」を見ていただきたい。(執筆者)町文化財専門員・小谷賓男