ブックタイトルm19_20120210132621_kouhouhinokage
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工藤百桜ちゃん【平成23年4月19日生まれ】(西宮水)光弘さん・恵美さんの長女甲斐美彩菜ちゃん【平成23年5月14日生まれ】(袴谷住宅)健太さん・砂也香さんの次女町史編集事業(日之影町史1から11巻)で、それぞれの分野にわたり詳しくまとめてありますが、刊行されている町史の内容も含め、紙面の都合上掲載されなかったものを連載していきます。ふるその?古園?地名の由来はいつ頃からこのように呼ばれるようになったのかは定かではないが、園については諸説があり、有力者のもとに耕作農民が咽誕i園地を持って居住した居園に由来するのではなかろうか。古園は、六世帯二十人の仁田原と古園・古城の地名の付く三集落からなっている。昭和二十年の統計では二十二世帯人口百六十人の集落であったが、平成二十二年、三月の統計では二十三世帯人ロ七十四人の集落になっている。住民の生業以前は農林業が中心であったが、現在は専業の農林業の家は少なく殆どが他に職を持つ兼業の家が多い。古城の東側は下城と呼ばれ昔の城趾ではないかと伝えられていて、古城の姓を名乗る人家もある。下城とあるは高城(高城山)の下にある見張所としてつけられた名称ではなかろうか。下城の頂上にある石碑は、安政七年(一八七〇)に山本・古城.・赤星の三家で建立されているが、石碑に見られる刻字のなかにかなり古い年代の刻字が見られるがはっきりしない。この地区は、江戸時代(文政三年一八二〇)頃から嘉永・文久・大正・昭和八年二九三三)に至る百十三年間、用水路の開削が行われ、その後も改修が続けられ現在の田地が確保されている。集落の古さから有形の文化財等も多く見られる。集落中央に見られる古園神社(天満天神)祭神は管原道真公であるが、仁田原天神・古城天神を合祀して創建されたといわれ、南無天幡大自在天神元禄十五年(二七〇二)建立の棟札が見られ今から約三百年前になる。仁田原集落上方に稲荷大明神、が祀ってあるが、伝えられるところによれば、明治時代に古園と上小原合同で、庄屋の子孫である甲斐宗四郎氏の山の一角を譲り受けて屋敷を開いて杜殿が作られた。古園神社前右横に地蔵堂があり不動明王・薬師如来その外木像・十一体・石像十二体の仏像が合祀されている。地蔵堂左横には、奉待月待御石塔(安永六丁百歳・一七七七)・奏請本尊無垢法性圓位(文久三癸亥宿(一八六三)・水路記念碑(昭和十六年)の石塔が見られる。無形文化財の郷土芸能としては郡内でも珍しい沖融神陰鞍馬流の棒術が上小原から伝えられたと言われ現在も伝承されている。甲斐建一さん宅前の築山に山石が建っている。これは当家の先代が甲斐宗摂の側室の梅ヶ枝の墓石が大人上方の山中にあるので参ることが容易でないので、この場に墓石のかわりに山石を建て、この場所からお参りをしていたと言われている。古いものとしては、永禄十に建立され三年(一五七〇)た阿弥陀三尊(観音勢至)そとうま菩薩の卒塔婆も見られる。永禄十三年(二五七〇年)今から四四一年前安永六年(二七七七年)今から二三四年前文政三年(一八二〇年)今から一九一年前文久三年(二八六三年)今から二四八年前安政七年(二八七〇年)今から二四一年前詳しいことは「町史資料編・村の歴史」を見ていただきたい。(執筆者)町文化財専門員小谷賓男