ブックタイトルm04_201407100000_rediscovery
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のが3基ある。のが2基、それと推定されるも上持一族のものと認められるもわれるものが多いが、明らかにる。墓石は31基あり、僧侶と思集め、土持氏歴代の墓としていを投じて散在していた墓石を眞鉄(まがね)氏が発見し、私財(1926年)、郷土史家・岩村県道24号線沿いの高鍋町大字南高鍋の大平寺墓地にある。大正十五年土持墓地の地を去った。郡(現在の西都市)の伊東祐堯(すけたか/日向地頭)によって攻め落とされて財部その後600年にわたり支配することになるが、長禄元年(1457年)、都於に財部に城を築いたのが財部土持氏の始まりとされている。諸説あるが、土持秀綱(ひでつな)が斎衡(さいこう)年間(854年?857年)た/現在の延岡市)から飫肥(おび/現在の日南市)までに渡り勢力を誇っている。繁栄した頃は、平安時代末期のことで、土持七頭(ななかしら)と呼ばれ、県(あが日向の有力な日下部氏との縁戚関係を強め、勢力を拡大していく。一族が最大にかったことから「土持」の姓を賜ったといわれている。を造営する際に、土を盛るのにその袖でくるんで持ち運んだところ、これが崩れな宇佐八幡宮の社人とされ、姓は田部氏。土持の名の由来については、宇佐八幡宮土持氏について土持氏の家紋「唐花」秋月氏の家紋三つ撫子輪違いの唐花秋月墓地高鍋町役場向かいの山林の中腹にある高鍋藩秋月家歴代の墓所である。秋月家には菩提寺(ぼだいじ/先祖代々の墓や位牌を置き供養する寺)が三寺あり、「大龍寺(だいりゅうじ)」「安養寺(あんようじ)」「龍雲寺(りょうおんじ)」である。明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動により現在、寺は無くなっている。昭和47年(1972年)に高鍋町文化財に指定された。に対抗したが、もとより豊臣秀吉の敵ではなく、日向国高鍋に移封された。天正十五年(1587年)、豊臣秀吉の九州征伐では、島津氏に属して豊臣勢広大な所領を築きあげた。(1580年代)には筑前に六郡・筑後に四郡・豊前に一郡と推定三十六万石のけ暮れた。さらに島津義久と手を組み、次第に領地を広めた種実は天正年間利氏と手を組んで、豊後(現大分県)の大友氏との対立に闘志を燃やし合戦に明戦国時代になって、秋月氏十六代・種実(たねざね)は、中国地方の大内氏や毛に居を構えることになる。予で反乱を起こした藤原純友を討伐した功績により筑前秋月(現在の朝倉市)七世紀の推古天皇の時代に遣隋使として派遣され、十世紀の平安時代には伊に、漢文化を伝える部族として重んじられ、大和に住んでいる。ちのおみ)が大陸の内乱を避けて日本に帰化している三世紀の応神天皇の時代秋月家のルーツは約二千年前の中国の皇帝、漢の高祖で、末裔の阿知使主(あ秋月家について