ブックタイトルm04_201407100000_rediscovery
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荒木家の三男として生まれたが、七歳の時に斎藤家の養子となった。二十五歳(明治三十二年/1899年)で札幌農学校を卒業すると、秋田県平鹿郡(現在の横手市)農事試験場技師、同試験場長を歴任する。二十九歳(明治三十六年/1903年)の時、高鍋町に児湯郡立農業高校(現在の高鍋農業高等学校)が開校し、地域住民の期待が大きい中、迎えられて初代校長に就任する。郷土愛と勤労開拓の精神、質実剛健と報恩礼節の「齋角精神」は、県内外から校風を慕って集まる生徒も多く、また児湯地区では、子弟を学ばせることを誇りとしていた。退職までの二十三年間、農業高校の教育に全力を傾け、五十二歳(大正十五年/1926年)で退職。五十六歳(昭和六年/1931年)で永眠。安養寺墓地に眠る。坂田家は代々秋月家に仕えた古い名門で、藩公の信頼が厚く剣術、柔術の家柄で山奉行であった。稲太郎は明倫堂に学び、二十歳の時(弘化三年/1846年)以降、十代藩主・種殷のお供としてしばしば江戸と高鍋を往復している。向学心に燃え余暇を利用して、剣術、西洋砲術などの高度の免許を取得し、多くの著名人に師事している。長崎では勝海舟に学び、高鍋の藩兵を鍛えて、戊辰の役の時には藩兵側に多大な勲功をもたらす基礎を作っている。藩政末期には、山奉行として山林制度を整えている。また、この時期に平原地区住民に谷坂、金刀比羅山一帯を管理させて、住民が不自由なく薪を利用できるようにしている。六十二歳(明治二十一年/1888年)で永眠。谷坂墓地(北平原地区)に眠る。宮崎県立高鍋農業高等学校初代校長斎藤角太郎山林管理に貢献した坂田稲太郎