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概要

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田村家の三男として生まれたが、「退蔵」と称して宮田の三好家を継いだ。幼少から明倫堂に学び、十二歳の時、成績優秀で白銀五両の賞を受ける。二十歳で水筑弦太郎(つるたろう)とともに江戸に遊学し、後に安井息軒に師事し、各藩の秀才の中でも抜きん出て異彩とされた。明治維新に際しては高鍋藩の大目付役として藩主を補佐し、明治二年(1869年)には政府の行政官となった。その後は司法省に入り、大審院判事、横浜裁判所長などを歴任する。その間伊藤博文らと三回ヨーロッパに渡り、明治二十三年(1890年)大審院検事総長に任命される。明治二十六年(1893年)に大審院長となり三年七ヵ月勤めた。この後、弁護士となり、さらに東京弁護士会長を勤めたが、常に庶民・住民側に立つ弁論を展開した。大津事件では検事総長として活躍した明治二十四年(1891年)、五月、来日中のロシア皇太子(後の二コライニ世)が、滋賀県の大津市内で警護の巡査、津田三蔵に襲われて負傷する大津事件が起きた。政府は皇室に対する犯罪として死刑にするように働きかけた。しかし、退蔵は検事総長ながら、今でいえば最高裁判所長官にあたる児島惟謙(これかた)と連絡を取り、司法大臣に法の順守を進言した。その結果、犯人を無期徒刑(懲役)にすることで職責を全うし、司法権の独立を守ることとなった。藩士の家に生まれ、幼いころから茶道、文武両道に秀で、秋月家の三代(十代藩主・種殷/種樹/種繁)に仕え、特に秋月種樹公の側近として知遇を受け功績を上げている。治水管理こそ増産の基であるという藩主らの考えのもと、上江の灌漑用水路の建設に力を注いでいる。多くの困難の中、完成するまで約六十年間、用水路の維持管理に努め、今なお農業用水路として活用されている。信条は第一に親につかえて孝であれ。第二に公に対して忠実であれ。八十九歳(昭和八年/1933年)で永眠。昭和九年、功績をたたえ「本田親君灌漑功績記念碑」が、黒谷地区の愛宕神社入り囗に建てられた。法曹界の重鎮三好退蔵用水路建設に貢献本田親