ブックタイトルm04_201407100000_rediscovery
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生まれながら健康で正義感が強かったという。旧制宮崎中学校(現宮崎大宮高校)四年生の時、橘橋付近で不良青年と大喧嘩をして退学処分となり、東京の成城中学校に進む。二十歳の時(明治三十九年/1906年)旧制第7高等学校と海軍兵学校に合格したが、海軍兵学校に37期生として入学した。二十三歳で海軍兵学校を卒業。海軍少尉候補生となり、軍人としての第一歩を踏み出す。剛直で独創力に富み、砲術に詳しく、特に水雷作戦に秀でており、軍部司令長の信頼も厚かったという。空母機動部隊の創設を図るなど海軍大学校長、軍令部次長を経て、五十九歳の時(昭和二十年/1945年)海軍総司令長官兼連合艦隊司令長官兼海上護衛司令長官に任命される。戦後は、終戦処理に従事した。敗戦時には部下に自決を禁じ「敗戦の責任はあるが、開戦の責任は無い」と生き延びる道を説いている。八十歳(昭和四十一年/1966年)東京で永眠。墓は鎌倉霊園(鎌倉市)、分骨し高鍋町の元祇園墓地(道具小路南地区)に埋葬されている。生涯無欲の精神をもって軍人生活を貫いた。十日町地区には生家が保存されている。帝国海軍最後の連合艦隊司令長官小澤治三郎