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概要

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石井十次は、慶応元年(1865年)高鍋町上江の馬場原(ばばのはる)に生まれた。医者を目指していた十次に、明治二十年(1887年)二十二歳の時に人生を変える大きな出来事が起きた。岡山での診療所での実習中に、貧しい母親より男児一人を預かったのがきっかけで、児童福祉・教育事業への道を進むことになる。「日本孤児教育会」と名付けられたその施設は、のちに「岡山孤児院」と呼ばれるようになるが、救済児童の数は徐々に増えていき、明治三十九年には施設児童数が一二〇〇人に達している。施設内には、幼稚園や学校も設け、一貫した養育・教育を行っている。十次が描いた夢は、不幸な孤児たちの親がわりとなり、将未の進むべき方向を示し、神の教えを受けながらお互いに助け合う人間関係を築くことだった教育の理想郷づくりのために選んだのが、高鍋、西都、本城の三つの市町にまたがる台地・茶臼原であった。十次は「時代教育法」の中で、「幼年は遊ばせ、少年は学ばせ、青年は働かせる」と唱えている。つまり十歳以下の子どもは茶臼原で遊ばせ、十歳を過ぎたら岡山に連れて帰り、小学校教育を受けさせようというものであった。しかし現実は厳しく小学校も岡山から移すことになった。岡山の塾舎、学校などもことごとく解体し、船で運んでいる。大正二年(1913年)三月十一日、茶臼原孤児院の将来を夢みて「茶臼原憲法」を発表している。憲法天は父なり、人は同胞なればお互いに相信じ相愛すべき事。天父は恒に働き給う、我等も倶に労働すべき事。天恩に感謝のため、我等は禁酒、禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉に納むる事。十次の考えた理想郷とは、広大な大地に農家として独立させ、のちにその農家に救済した児童を預けていく、つまり「里親村」をつくるというものであった。教会も学校もある、理想的農村共同体が実現するはずであった。しかし志半ばにして倒れ、大正三年(1914年)四十八歳で永眠。児童福祉の先駆者石井十次