ブックタイトルm04_201407100000_rediscovery
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持田古墳群は卑弥呼と関係が深かった「三国志」のいわゆる「魂志倭人伝(ぎしわじんでん)」によると、西暦239年(景初3年)に邪馬台国の女王・卑弥呼が魂に遣使をした際、帝から[親魂倭王]金印と銅鏡百枚などを授かったという。卑弥呼は鏡を「好物」としたとされる。百枚の鏡の有力な候補が三角縁神獣鏡とする説がある。宮崎県でも持田古墳群から2枚(舶載鏡)が出土している。邪馬台国の女王・卑弥呼が賜ったものかもしれません。魂志倭人伝わが国を国家として記された最古の文献は、1,988文字からなる「魏志倭人伝」である。これは魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国について書かれた中国の歴史書「三国志」のなかにあり、魏の国を記した「魏志」の東夷伝、倭人の条のことである。日本人がまだ文字を知らない時代に書かれた重要な記録であり、西暦200年代前半頃の我が国の様子と邪馬台国の女王・卑弥呼について知ることができる。舶載鏡を倣ってわが国で製作したもの彷製鏡(ぼうせいきょう)舶載鏡・:大陸から船に載せてもたらされた鏡築造年代は4世紀後半頃と推定される。墳長120m、この古墳群内最大の前方後円墳。はないかと考えられている。とにより、この古墳群の中で最も古い古墳の一つでしての盤龍鏡(ばんりゅうきょう)が見つかったこ計塚は副葬品から舶載鏡(はくさいきょう)と計塚(はかりづか)持田1号墳平行に並べた装飾の木(鰹木とも表記)堅魚木・:屋根の上に、棟に直角になるよう水平。築造年代は5世紀前半頃と推定される。付近から出土している。られる。このような家形埴輪は西都原古墳群の女狭穂塚つ出土していることから、埴輪が副葬されていたと考え家形埴輪の棟にのせる堅魚木(かつおぎ)の破片が二「亀塚」の名称が付けられたと考えられている。この形式の古墳は横からみると亀の姿に見えるので帆立貝式古墳亀塚(かめづか)持田62号墳