ブックタイトルm04_201407100000_rediscovery
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岩岡保吉は明治二十二年(1889年)、香川県大川郡に生まれる。幼少より体が丈夫だった保吉は、小学校を卒業すると、十三歳の時に、町内の文房具店に奉公し、リヤカーで近隣村の学校を巡回する、いわゆる出張販売を5年間にわたり続けた。その後、高鍋町小丸の秋月医院に、医師の往診の為の車夫として住み込みで働いている。十九歳の時には、高鍋町小丸上に米穀販売業を営み、誠実、正直、勤勉な人柄はお客の信頼を集め、繁盛したという。四国八十八ヵ所の巡礼に出かけたのは二十九歳の時で、現金6000円を持って行ったという。大正から昭和初期にかけては、85基ある持田古墳群に大規模な盗掘事件が続発し、信仰深い四国出身の保吉は、心を痛め高鍋に八十八ヵ所建設を決心することになる。この時すでに保吉は四十歳。仏像彫刻の材料となる石を宮崎郡清武町(現在の宮崎市)の石切り場に一人で行き、前金で支払い、購入した石はトラック8台分にもなったという。弘法大師(774年?835年)生誕1200年を迎える前の、保吉四十三歳の時に、東光寺に土地を買い求め、雑木を払い、八十八ヵ所建設の準備にあたった。間もなく、大分県佐伯町(現在の佐伯市)から石工仏師(丸山又三)を招き、小丸川に作業場を設け制作に励み、その間本人も彫刻技術を学んでいる。東光寺八十八ヵ所が完成したのは、四十四歳の時で、東光寺東面を開山し、八十八体の仏像を安置している。その後、自力で大師堂を建設し、そこに弘法大師石像一体、仏具一式を制作して安置している。戦後、真言宗の律師の免状を取り、ひたすら英霊と古墳の供養、町民の安全祈願を行なっている。高野山真言宗の得とくではあるが、型にはまらない自由な考えで制作している作品には本人の人柄が表れている。生涯の制作数は、大小各種約750体を超える。日向灘を眺める石像群岩岡保吉型にはまらない自由さには人柄がにじみ出ている