ブックタイトルm04_201407100000_rediscovery
- ページ
- 31/94
このページは m04_201407100000_rediscovery の電子ブックに掲載されている31ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは m04_201407100000_rediscovery の電子ブックに掲載されている31ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
m04_201407100000_rediscovery
茂廣毛神社の跡に建てられた碑で、昭和五年(1930年)に建碑されている。蚊口浜に漂着した福智王の一行が、雨に濡れた裳(衣類)を広げて乾かした場所なので、この名がついた(裳広げ茂廣毛)といわれている。または、帆を広げて乾かした場所で、その転音によって「もひろげ」(帆広げほひろげもひろげ)になったともいわれる。神社は明治九年(1878年)、毛比呂計神社として、中鶴地区内の別の場所に移された。祭神は三筒男神(ミツツオノカミ)で、底筒男神(ソコツツオノカミ)、中筒男神(ナカツツオノカミ)表筒男神(ウワツツオノカミ)三柱を総称して「住吉三神・三筒男神」という。これらは、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が禊(みそぎ/川や海の水で体を洗い、穢(けがれ)を落とすこと)をした時に産まれた神々である。福智王が蚊口から比木に向かう途中、末娘が病にかかり亡くなり、谷沿いに葬られたといい伝えのある坂。この宿の坂の途中、高速道路の高架下にあたる場所に、小さな墓碑が並んでおり、福智王の娘の墓といわれている。この墓はかつて山の峠付近にあったが、道路などの整備で現在のところに移されたという。比木神社の神事「大年下り」や「お里廻り」の際には、それまで笛や太鼓で賑やかだったご神体の行列は、この墓の近くでは鳴り物を一切やめて静かに通る。これは、「姫の霊が【私も連れて行って…】と泣きながら、行列の後追いをするからだ」といわれている。茂廣毛神社跡碑(中鶴地区)毛比呂計神社(中鶴地区)宿の坂(青木地区)