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概要

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百済王伝説にかかわるもの藩政時代の高鍋藩主秋月氏が代々尊崇した神社で、米、薪、土器などが寄進され、祭典には藩主の代参が恒例であったという。祭神は櫛名田比売(クシナダヒメ)で、合祀は、大年の神(毎年正月にやってくる神)、美年神(ミトシノカミ)、若年神(ワカドシノカミ)、そして禎嘉王妃(ていかおうひ)の之伎野妃(しぎのひ)である。建立は比木神社(木城町)と同じ任寿(にんじゅ)二年(852年)。毎年十一月上旬、比木神社の祭神・福聟王が、母・之伎野妃を訪ねて来る比木神社のご神幸「大年下り」が行われる。今から約1350年前、戦いに敗れて百済(韓国)の国を離れた禎嘉王(ていかおう)とその家族は、わずかな供を連れて、安芸の厳島を経て日向の国(現宮崎県)に向かった。途中で嵐に巻き込まれ、禎嘉王の一行は金ヶ浜(日向市)に漂着、之伎野妃と福智王(ふくちおう/禎嘉王の子)の一行は蚊口浜に漂着した。福智王は母妃をその海岸に残したまま、追討軍の目をそらすために木城の比木へと向かった。禎嘉王は南郷神門(美郷町)に、之伎野妃は高鍋に居を構えたが、一族の安穏とした日々は長くは続かなかった。数年後、百済からの追っ手と戦って、夫・禎嘉王が亡くなったことを知った之伎野妃は、後を追って命を絶つたという。之伎野妃の墓を囲むように建てられた小さな墓は、之伎野妃に従って殉死した女官らのものだと伝えられている。大年神社(鴫野地区)之伎野妃の墓(鴫野地区)