ブックタイトルm04_201407100000_rediscovery
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高鍋藩から筑前秋月藩の跡継ぎ秋月藩第8代藩主黒田長舒秋月街道に架かる眼鏡橋は、当時は橋の損傷も著しく家臣や領民の要望が強まり、藩財政の厳しい中建設を決断し1810年完成。しかし、病床にあった長舒は完成を見ることなく1807年、43歳で亡くなる。ませている。士を競わせたり、神社で歌舞伎芝居を催して人心を和酒食をともにして贈り物をした。また、相撲を好み、力行者を表彰し、八十歳以上の人を招いて労をねぎらい、米を与えた。さらに領内を巡回し、領民に声をかけ、善子の間引きを禁止し、子育ての困難な家庭には養育ち続け、「経世済民」を実践している。の振興を図り、藩主として領民への慈しみの心を終生持長舒は、叔父上杉鷹山を畏敬し、鷹山を範として諸般月藩が後継ぎとして渇望した人物であった。ら文武に秀で、その資質は高く評価されていたので、秋娘という黒田家・秋月家双方の血をひき、また若い頃かこの時、長舒は、父種茂の母が、秋月藩第四代藩主の絶を画策したが、なんとか藩取り潰しの危機は免れた。絶の危機を迎えていた。この事態に福岡藩は秋月藩の廃堅(ながかた)が嗣子がないまま、十八歳で若死にし、断秋月藩は天明四年(1784年)第七代藩主・黒田長歳のとき、秋月藩第八代として迎えられた。二男として生まれたが、天明五年(1785年)二十一明和二年(1765年)高鍋藩七代藩主・秋月桂茂の改革や充実策を進言し藩政に大きな活力を与えた千手興欽ひっそりと眠る千手興欽安養寺墓地八十三歳で死去。いる。以上の子があれば養育費を支給することなどを進言してまた「間引き」が行われていることを憂い、農民に三人して興欽をその教授に任じている。種茂は、即日この建議を用いて学校を設け、「明倫堂」と称学校を設けて文教を奨励するように建議している。藩主・種美・種茂・種徳・種任の四代に仕えて偉功があったが、天明、寛政期の厳しい藩政に大きな貢献をなしえている。方、そして代官として才能を発揮している。江戸中期の安永、に明るい人物」として評価され、財政、会計畑の下役、蔵のちに藩内随一といわれたように「数字に強くて、経済ることを心に誓ったという。えという言葉を聞いて苦しい境遇のなかでも学問を続け位に付くに足る実力が身についていないことを思い患らんを患う/地位が得られないことを思い患うよりも、地「不患無位患所以立」(位なきを患わずして、立つゆえ入れた内藤元吉(有全)に教えを受けている。論語の中の少年時代には高鍋蒲に最初に朱子学を本格的に取りを務めている。た地方役人であり、その一方で、藩校・明倫堂の学校師範領民と関係の深い蔵役、目付、代官、検者の職を歴任し