ブックタイトルm04_201407100000_rediscovery
- ページ
- 21/94
このページは m04_201407100000_rediscovery の電子ブックに掲載されている21ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは m04_201407100000_rediscovery の電子ブックに掲載されている21ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
m04_201407100000_rediscovery
九代藩主・種任の子。江戸藩邸で生まれる。二十七歳の時(天保十五年/1844年)藩政の改革に伴い、明倫堂に医学館を設け、嘉永六年(1853年)には寄宿舎・切偲楼(せっしろう)を建設している。また、教授、助教授の定年制を実施し、奨学制度を起こした。外交及び海防に世論が高まりつつある時、藩では細島、美々津、福島三港に砲台を築き、近代戦に対処するため新兵器、新式教練の採用を断行している。また郷学校を開き、農村子弟の教育、屯兵の質向上を図っている。五十二歳の時(明治二年/1869年)藩籍奉還により藩知事に就任。幕末動乱期にその処置を誤らず、隣藩外交、藩内政治を全うした。大龍寺墓地に眠る。高鍋藩歴代藩主の茶会の場所として建てられた屋敷で、四代藩主・種政が元禄五年(1692年)お茶屋に行ったという記録が最初である。もひろげお茶屋を最もよく利用したのが、七代藩主・種茂で、お茶屋に能舞台を造って広く庶民に開放し、農民や町人に能楽を鑑賞させ、また、蚊口踊りや比木の水神踊りなどの芸能を種茂に披露する催しなどが行われたという。天下の三公子と呼ばれるほど無類の学問好きで、二十九歳の若さで江戸幕府の学問所奉行となる。翌年には若年寄となり、将軍家茂の教育係・侍読(じどく)の役を授かり幕府の要職につく。しかし時代が幕末という大きなうねりの中、種樹は幕府と運命をともにするつもりはなく、元治(げんじ)元年(1864年)に職を辞することになる。しかし明治元年(1868年)明治政府の参与となると、明治天皇の侍読となり、下局議長を兼ねる。版籍奉還、廃藩置県に率先協力して、維新の大事業の制度樹立に尽力した。文部大臣格となると、新教育制度の樹立に貢献している。やがて高鍋に戻ると、「千歳亭」に入り、高鍋学校生徒の指導にあたり、漢文や作文を教授し、かたわら書画を楽しみ多くの作品が残されている。高鍋藩十代藩主・秋月種殷明治天皇の教育係、学校制度樹立に貢献秋月種樹