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概要

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四代藩主・種政の子。まず、家老のうちより「福島都合」を選んで責任を明らかにし福島(現在の串間市)治績を上げている。二十六歳の時(正徳三年/1713年)人材育成のため、廉(かど)の屋敷で、武芸などの稽古所を開設し、「文武両道は武士の道」であることを説いた。この学問所がのちの藩校・明倫堂である。種弘は身体虚弱であったが、頭脳明敏、摂生重んじ当時としては長命の六十五歳で江戸、麻布の藩邸で亡くなる。大龍寺墓地に眠る。五代藩主・種弘の子。高鍋城内で生まれる。先代からの経済振興策を受け継ぎ、互いに助け合うことを奨励している。また林業牧畜にも力を注いだ。一方では倹約令を出して徹底した財政引き締めを行った。種弘の意思を受けて学問武芸を奨励し、才学ある青年を選んで学資を与え、江戸、京都に遊学させて将来に備えている。種美は子女に恵まれ、長男種茂、二男松三郎は、米沢藩上杉家を継ぎ、三男頼完(よりさだ)は人吉藩相良家、四男忠快(ただよし)は大久保家、五男種懐(たねやす)は新小路秋月家を興し、六男信義(のぶよし)は高家中条家を、そして七男利国(としくに)は斉藤家を継いでいる。龍雲寺墓地に眠る。七代藩主・種茂の子。江戸藩邸で生まれる。生来健康にすぐれなかったが、治世のうち二十年は父種茂が健在でその後見に負うところが多かった。父の志を受けて人材の育成、民治の振興に努めている。特にいつくしみの心深く、美談が数多く伝えられている。その一つは鷹狩の時、鷹が獲物をつかんで地上に降りたのを、そこにいた農民の喜市というものが薪で打殺し、よく見ると脚に革が付いているので驚き、人に知られないように埋めてしまったという。結局それがわかり役人が重罪に処そうとした時、種徳は何のおとがめもなく許したという。弟(二男)は幸三郎で、のちに筑前秋月藩の立て直しで知られる黒田長舒(ながのぶ)である。大龍寺墓地に眠る。八代藩主・種徳の子。高鍋城内で生まれる。温雅な性格で七代藩主・種茂の遺訓を守り、慈愛の政を布く。特に医療関係に力を注ぎ、医師が重病人の診断を断ることを禁じ、赤痢等の流行にあたっては医薬を給付し、医師に対しては患者が遠くであっても往診することを命じた。種任の時になると諸費用がかさみ、天保四年には江戸への仕送り金六千両が不足となり、大阪商人から借り入れようとしたこともあった。大龍寺墓地に眠る。高鍋藩五代藩主・秋月種弘高鍋藩六代藩主・秋月種美高鍋藩八代藩主・秋月種徳高鍋藩九代藩主・秋月種任