ブックタイトルm04_201407100000_rediscovery
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筑前・秋月氏三十八代当主・秋月種実(たねざね)の子。戦国時代末期には父種実と共に筑前で活躍したが、二十歳の時(天正十五年/1587年)豊臣秀吉の九州征伐により日向国に移封となり、財部、福島(現在の串間市)などを与えられる。慶長五年には島津領都城の庄内の乱に家康の出陣状を受けて出兵、その年の関ヶ原の戦いには石田三成の西軍に応じたが、のちに東軍に転じて所領を安堵された。四十歳の時(慶長十二年/1607年)財部城の修復に着手して、四十二歳の時(慶長十四年/1609年)詰の丸に三層櫓を建設している。自ら菩提寺として建立していた龍雲寺墓地に眠る。初代藩主・種長の孫(種長の次女の子)。三歳の時(慶長十八年/1613年)種長に連れられて参勤し、大御所・家康、二代将軍・秀忠に御目見を済ませている。四歳の時に種長の死去により家督を継ぐが、幼年の藩主は成人まで藩地に赴くことができず(元服以前に江戸を離れることは許されなかった)、十年間足止めされた。種春の一生は「上方下方騒動」(お家騒動)の渦中にあったがそれに加えて、大阪冬の陣、島原の乱に出兵と内外ともに繁忙の連続であった。大龍寺墓地に眠る。※上方下方騒動・:種長の家老白井種盛が種長死後、種貞ではなくその子の種春を家督に据える為、反対勢力を次々に粛清、失脚させていく。二代藩主・種春の子。綱紀粛正を図り、藩主政権を確立していく。寛文元年(1660年)から領地検地を行い、地方支配を強化し藩政機構の整備や藩法の制定を手がける。「財部」を「高鍋」と改称し、人材の登用を行い藩外から手塚氏、門田(三好)氏、田村氏などを召し抱える。高鍋城を修築整備し、奥御殿を造り二の丸より移転して一層の藩政強化を図っている。終生能楽を好み多くの能楽師を迎えている。元禄二年(1689年)に隠居し、幕府に在所住居を願い出て許され萩原に住んだ。いわゆる萩原お屋敷と呼ばれ、現在の高鍋大橋の南から堤防沿いに行ったところで、このあたりは地区名が「御屋敷」である。龍雲寺墓地に眠る。三代藩主・種信の子。法令制度を確立し、藩政機構、地方支配機構を完成させた。藩外からは軍学師として佐久間頼母、儒学者内藤九右衛門らを招いている。一方、農地開拓に努力し貯水池、用水路の開削事業に着手、谷坂堤(元禄五年)、長法(宝)寺堤(元禄七年)、檜谷堤(元禄十四年)等現在も残っている。十三年間にわたり善政を行い、上江お茶屋に隠居している。上江お茶屋は長宝寺堤と高鍋より木城に至る県道の中間地点にあたり、小丸川の清流が流れ、桜も多く、眺望のよい場所であったという。大龍寺墓地に眠る。高鍋藩初代藩主・秋月種長高鍋藩二代藩主・秋月種春高鍋藩三代藩主秋月種信高鍋藩四代藩主・秋月種政