ブックタイトルm04_201407100000_rediscovery
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秋月種節の長男。明倫堂に学んでいたが、十四歳の時(安政五年/1858年)から豊後佐伯(現在の佐伯市)の秋月橘門(きつもん/高鍋藩・秋月家の支族)の家塾に三年間学んでいる。元々秀才型ではなかったが、この三年間で故郷の人も驚くほどの努力家になっていたという。二十三歳の時(慶応三年/1867年)幕府が江戸薩摩藩邸を焼き討ちしたおり、江戸で遊学していた弦太郎は、幕吏に追われていた薩摩藩士を助けることになり、これを理由に投獄されてしまう。疫病にかかり釈放されたが、五日後には二十四歳の若さで世を去った。大龍寺墓地に眠る。秋月種節の二男。黒水家の養子となる。十七歳の時(嘉永五年/1869年)祖父の志を継ぎ、桑園二反を栽培し、初めて養蚕に着手した。養蚕において大切なものは桑の葉であると着目し、桑園を増殖してその研究に努め、また蚕種を製造して成繭の良否を実践研究している。夕に先進地の養蚕書を読み、朝に実践し業が着々と発展していった。実に四十年一日のごとく養蚕の振興に尽くした人柄は、「この人こそ怒ることを知らない人という印象が残っており、何人にも親切で立派な人格者であった」といわれている。早くからキリスト教の信者で、児童福祉の先駆者・石井十次の良き協力者であった。大龍寺墓地に眠る。秋月種節の三男。明倫堂、鹿児島医学校に学び、司法省法律学校を卒業。ベルギー、ドイツに留学して三十四歳で外務省参事官となる。外務省のエリートとして各国の公使館に勤務して、五十一歳の時(明治四十二年/1904年)オーストリアの特命全権大使を務めた。退官後は読売新聞社社長となり、第一次世界大戦後のパリ講和会議における全権顧問となった。昭和二十年の太平洋戦争終結時には、早期講和の実現を吉田茂らと図ったが、病により東京で永眠する。この時八十七歳であった。左都夫が亡くなった後、残されていた数子冊の蔵書のうち外国語の原書は外務省に寄贈された。現在は国立国会図書館にある。大龍寺墓地に眠る。秋月種節の四男。兄の左袒夫とともに明倫堂で学び、東京帝国大学(現在の東京大学)卒業後、内務省に入り、書記官、参事官を歴任する。四十三歳で(明治三十七年/1904年)住友総理事となり住友全事業の監督経営の責任者となった。六十歳の時(大正十年/1921年)総本店を住友合資会社に改組して全事業を総括し、三井、三菱と対比される財閥に成長させた。龍雲寺墓地に眠る。国の繁栄を想う秋月家の四哲水筑弦太郎寛厚で人情に富む努力家黒水長平養蚕の振興に人生をかけた秋月左都夫日本の平和を追い求めた外交官鈴木馬左也住友を大財閥に育てた実業家