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概要

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三好家は安芸(現広島県)三好郷の出身である。祖父、父とも善太夫を襲名しているが、ここでいう三好善太夫は三代目のことである。五十一歳で家老に就任し、藩の教育について、三ヵ条の意見を進言し「国家の至宝は人材にあり、国力を強くするには理財その方を得るに在り、これを処する道如何」と申し出たという。宝暦九年(1759年)わずかに九歳の松三郎(上杉鷹山)が上杉家に入ることを喜ぶとともに、責任の容易ならぬことを察し「恐れながら」の語で始まる一書を、「成長の後も折節御覧下されたい」と誠心を込めて書き記してこれを呈上している。また、松三郎が上杉邸に引き移る時にも、再び一編の訓書を送っている。その二書には、善太夫の闇斎学の深い教養と高い識見、真摯な人柄が行回ににじみ出ている。鷹山は生涯二通の書をそばから手離さなかったという。善太夫の訓辞は鷹山の生涯の指針となり、数々の鷹山の業績はこれに基づいているといわれている。この書は現在も上杉家に保存されているが、原本のコピーが町立高鍋図書館にある。高鍋藩家老。旧姓は水筑。江戸から明治、大正、昭和へと姓は違うものの、国の繁栄を想い、故郷の安寧を願う心をもった四兄弟「四哲」の父。水筑家の先祖は秋月家の出であったが、筑前水城地方を治め水筑姓を名乗っていた。明治維新後再び秋月姓に戻っている。九代藩主・種任、十代藩主・種殷に仕え特に種殷の信頼は厚かったという。明治十年(1877年)の西南戦争の際、西郷軍参加を主張する意見が多い中で、反対論を説き、種節を含む同士九人(九烈士)が旧藩籾倉(仮牢/現在の高鍋農業高校テニスコート付近)に幽閉され、病気のため獄中で死亡した。大龍寺墓地に眠る。三好善太夫四哲の父・秋月種節秋月家の四哲の父上杉鷹山に訓辞を送った高鍋藩家老四哲碑