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概要

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高鍋藩六代藩主・秋月種美の二男。幼名は松三郎九歳の時(宝暦十年/1760年)米沢藩第八代藩主・上杉重定の養子となる。養子に内約が調った折り、高鍋藩家老・三好善太夫から書簡が送られ、鷹山は生涯この書を手離さなかったという。十六歳の時(明和四年/1767年)米沢藩を継ぐ。上杉家は多くの借金がある一方、他の藩とは比較にならないほど家臣の割合が多く、財政破たん寸前の深刻な状態であった。産業や財政に明るい人物を起用し、先代任命の家老らと対立しながらも、自らの支出を千五十両から二百九両に切り詰めようとした。五十人いた奥女中を九人に減らすなど、大倹約令を出して、率先実行した。このような倹約は十六年間続き、これらの施策で破たん寸前の藩財政は立ち直り、第十一代藩主・上杉斉定(なりさだ)の時代には借金を完済している。百方苦心して藩政を安泰なものとした。さらに閉鎖されていた藩校・興譲館(現在の山形県立米沢興譲館高等学校)を再興させ、藩士、農民など身分を問わず学問を学ばせている。三十四歳の時、(1785年)家督を前藩主・重定の実子で鷹山の養子であった上杉治広(鷹山が養子になった後生まれた子)に譲り隠居するが、「人君の心得三ヵ条」を伝授し、亡くなるまで後継藩主を後見し、藩政を実質指導している。寛政四年(1792年)四十歳の時、第十代藩主・治広と共に、医学校「好生堂」を開設し、薬草園も開いた。最高の医師二人を教師として招いている。しかも、西洋医学が恐れ敬遠されていた時代に、蘭方医の杉田玄白のもとに藩医の子弟を派遣して学ばせている。驚くことに、オランダ製の医療器具なども備えており、米沢は「東北の長崎」と称されるに至った。このような米沢藩になりえたのは、鷹山が慈愛、忍耐、勤勉、誠実さを持ちえた人格者であり、人の道を実践した「偉大」な人物であったからといえる。鷹山の号は米沢藩領北部の白鷹山(しらたかやま)からとったといわれている。上杉家廟所(現在の山形県米沢市)に眠る。人君の心得三力条とは国家(先祖より子孫へ伝候国家にじて、我私すべき物にハ無之候人民(国家に属したる人民にして我私すべき物にハ無之候国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民には無之候上杉鷹山米沢藩第九代藩主