ブックタイトルm04_201407100000_rediscovery
- ページ
- 11/94
このページは m04_201407100000_rediscovery の電子ブックに掲載されている11ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
このページは m04_201407100000_rediscovery の電子ブックに掲載されている11ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。
m04_201407100000_rediscovery
種茂の回りをとりまく主な人々人物相関図6代藩主秋月種美5代藩主秋月種弘(たねひろ)の長男として高鍋城内で生まれる。父の意思を継いで学問武芸を奨励し、才能ある青年を選んで学資を与え、江戸、京都に遊学させて将来に備えた。高鍋藩家老三好善太夫三好家は元々安芸広島三好郷の出で、祖父が3代藩主・秋月種信(たねのぶ)の時に召し抱えられる。上杉鷹山に訓辞を送ったことで有名である。7代藩主秋月種茂漢学者千手興欽6代藩主・種美から9代藩主・種任まで4代に仕えている。貧しい人々が間引くことを憂い、養育費等の支給や学校建設も提案し7代藩主・種茂が実行している。論語の「位無きを憂えず学なきを憂う」を貫き大いに発奮し学に励んでいる。飢饉に備えてモミを貯蓄したことは特筆されるもので、大飢饉がやってきても餓死者は出ず、全国的に広がっていた農民一揆も起こらなかった。「国づくりは人づくり」の想いが根底にあり、のちの時代の日本を背負う人物を生み出していくことになる。8代藩主秋月種徳米沢藩第9代藩主上杉鷹山6代藩主・秋月種美の二男として江戸で生まれる。9歳の時に米沢藩第8代藩主・上杉重定の養子となる。藩財政が苦しい中倹約令を出し、藩政を安泰なものにした。高鍋藩家老秋月種節9代藩主・種任、10代藩主・種殷に仕えている。特に種殷の信頼は厚く、藩政の改革に取り組み家老に昇進した。4人の子ども、水筑弦太郎、黒水長平、秋月左都夫、鈴木馬左也は、世に「四哲」として名を知られる。7代藩主・秋月種茂の子として江戸藩邸で生まれる。生来健康に優れなかったが、いつくしみの心深く美談が伝えられている。9代藩主秋月種任8代藩主・秋月種徳の子として高鍋城内で生まれる。温雅な性格で種茂の遺訓を守り、慈愛の政を布く。医療関係に力を注いでいる。10代藩主秋月種殷筑前秋月藩第8代藩主黒田長舒20歳の時に祖母が筑前秋月藩第4代藩主・黒田長貞(ながさだ)の娘であったことから、黒田家、秋月家双方の血をひいていたことで、断絶の危機にあった秋月家の後継ぎとなる。秋月種樹9代藩主・秋月種任の子として江戸藩邸で生まれる。明倫堂に医学館を設け、また寄宿舎・切偲楼(せっしろう)を建設。幕末動乱期に藩政外交、藩内政治を全うした。明治天皇の侍読(じどく/天皇に仕えて学問を教授する学者)を務めた。また、西南戦争の時には高鍋に汚名を残さないように奔走努力した。高鍋藩、高鍋県となる戸数9117戸、人口43334人高鍋藩、版籍奉還、種殷藩知事に任命される種樹、明治天皇の侍読となる種股が明倫堂に寄宿舎・切偲楼を建設する上杉鷹山死去、七十歳墓は上杉家廟所(現在の山形県米沢市)龍雲寺墓地は遺髪墓である種茂死去、七十七歳(江戸藩邸で永眠)九年にも行っている幕府天文方、伊能忠敬、高鍋藩測量(六日間)種徳の死去(四年)により種任が家督を継ぐ密貿易禁止となるワシントン、アメリカ大統領となる種徳、初入部種頴隠居、種徳が家督を継ぐ上杉鷹山、父種美看病の為着府上杉治憲(鷹山)隠居幸三郎(長舒/種茂二男)筑前秋月藩城主黒田家相続種茂、種頴と改名する藩校増築