ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

m04_201407100000_rediscovery

人材育成に努め、高鍋藩の全盛期を確立秋月種茂秋月種茂は寛保三年(1743年)、六代藩主・種美(たねみつ)の長男として江戸藩邸で生まれた。種茂が家督を相続したのは十八歳(宝歴十一年/1761年)の時であった。意欲に満ちた若き藩主は、貧しい人々が間引きすることを憂い、農家の子ども三人目から、一日米二合、または麦三合のいずれかを支給した。また出産技術が未熟なために赤ん坊を死なせるケースが多かったことから、大阪から有能な産婆さんを招き出生率を向上させている。さらに当時よく思われていなかった双子の出産については、身分を問わず扶助料を支給している。思いやりは身分を問わず行われ、朝鮮人参を栽培しては藩倉に蓄えて、薬価に乏しい領民に施している。早くから学問を学んだことから、三十五歳の時(安永七年/1778年)、祖父、五代藩主・種弘(たねひろ)の「文武両道は武士の道」である教えを引き継ぎ、のちに多くの偉人を輩出することになる、藩校・明倫堂を開校している。新たな人材登用や大規模な開墾事業を行い、換金作物の植え付けを奨励し、山林資源の開発利用を促進している。このように政策、経済の充実は目をみはるものがあり、高鍋藩の全盛期を確立させ、歴代藩主随一の実績を残している。秋月種茂、種美の長男として生まれる百石以上の士は必ず馬を飼うよう命ずる高鍋困窮につき勧進相撲が許可される長崎大通詞、高鍋藩へ出入り許可を与える松三郎(鷹山)生まれる種茂、山城守となる種美隠居し種茂が家督を継ぐ(種茂十八歳)痢病流行につき、人参等施薬する家老三好善太夫死去種茂、初入部農民三子以上扶助料支給、一日赤米二号、畠地物三合大砲試射を行う(蓑原流)朝鮮使節接待双子手当支給幕府、諸国農民に間引き厳禁通達筏石橋が完成する産婆みつ大阪より召し抱え(三人扶持)高鍋町大火、106戸(内寺院一)焼失する藩校・明倫堂開校