ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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児を伴い岡山に帰り、孤児教育会を設けた。岡山孤児院の初めである。二十二年「人は二主に仕ふること能はず」との聖書の章句に感激し、六か年学習の医書を焼き医学校を退学し、孤児教育に専念することを誓い事業に着手した。当時慈善事業は、世の顧みるところとならず、飢餓全院に迫り、断食祈とうにその日を、過ごすことも少なくなかった。こうした時に、明治二十四年濃尾大地震起こり、災害児童を収容救護すること九三人に達した。また塾舎制度を改めて家庭制度とし、わが国慈善事業界に新しい道を聞き、院内に尋常高等小学校を創立し乳児、里親制度を創始するなど、我が国福祉事業界に大きく貢献した。三十九年には、東北地方大飢きんによる孤児貧児も六回にわたり、八OO人を収容し、在院千二百余人にのぼった。更に孤児教育の真随は、独立自活の良民をつくるにありと信じ、農業的訓練を与えんがために、宮崎県茶臼原に分院を設置し、四十一年以後、次第に岡山市から児童全部を移し、約六十余町歩(六Oヘクタール)五十余棟の植民村を実現し、また大阪市に分院を設け、南区下寺町貧民街に愛染保育所と同夜学校を聞き、専ら細民街の改善教化に努力した物赤誠よくその事業の成績を挙ぐるにしたがい、世の同情理解も自然にらんじゅ集まり、その善行を表彰して藍緩褒章を授けられ、またご下賜金を賜るなど仁慈に浴すること数回に及んだ。大正三年一月三十日持病腎臓炎のため茶臼原静養館にて逝く。享年五O歳。死に先だち正七位に叙せられ、茶臼原墓地に埋葬した。葬儀は圏内の知人名士をはじめ、郷土民の会葬者三、000人を超え人第8編るおびただしい人であった。石井晶子一八六五(慶応1年〉生一八九五(明治お年)没慶応元年、上江村字北平原新馬場の内野家に生まれる。父要蔵は早く亡くなり、兄玄馬が石井十次の父万吉と親友であった。明治十石井品子翌年九四年石井十次と結婚し、月、岡山県甲種医学校に入学する十次に従って岡山市に移った。同十七年九月、絹織物技術修得のために京都に赴いたが、十次の信仰上の姉ともいうべき山灰谷小梅の勧めにより翌年四月岡山に帰り、五月二日にたかはし岡山県高梁の順正女学校に入学した。同年八月、高梁教会で牧師古木虎三郎により受洗し、同年十月十七日、岡山に帰り、十九日から絹織物工ゆきよし場牽牛舎に通勤した。そのころ十次は医学校の菅之芳博士の食客となり、晶子は炭谷小梅女史と同居した。同二十年四月一日、十次が病気療養のかたわら医術の実地研究のため、岡山県邑久郡大宮村上阿知の診療所に行くのに従った。十次は貧児前原定一を同村大師堂に救い、さらに二人の孤児も救い、九月十六日、=一児を伴って岡山に帰り、三友寺を借り、岡山孤児院を創設した。品子は同二十一年十一月五日、神戸女子伝道学校に入学したが、院児はしだいに増加し翌二十二年一月十日、十次は医学を廃し医書やノlトのすべてを焼いて孤児教育に専念することを決意した。品子は十次の孤児教育の最良の同伴者となってその短い生涯を送った。石井品子について「岡山孤児院」の著者石田祐安は次のように述べている。お石井夫人は孤児院に於ける隠れたる基礎なり。創業の際一人の同情1159