ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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物パ明治4年)生一九五七(昭和也年)没・・・・開場m宮崎県児湯郡高鍋村大字南高鍋・・・・岡引」一九八番戸(現在の宮田〉父森孝円aa圃園調ツ一、母うめの長女として生まれ、1・・Fjazz-あっjJ曹、,A和幼時から学問の志篤く、高鍋小学h孔荒校を終えると、熱心に両親を説得FL姻prJして娘一人山越えで熊本に出て、,、明治二十一年五月、私立熊本女学校普通科に入学、専ら苦学して二十五年六月同校卒業。周年九月京都市同志社女学校専門部甲種師範科に入学、同校卒業後一年私立松山女学校、次いで高鍋小学校教員、三十二年四月求められて母校同志社女学校教員となった。三十五年八月、イギリス、ウスタI州アンステ1女子体育学校に留学三十六年五月帰国、望まれて村井銀行支配人村井貞之助宅の家庭教師をなすこと数年に及んだ。三十九年同郷高鍋町大字北高鍋一二四番戸、陸軍軍人荒瀬哲と結婚し、家事に専念し二男一女の母となった。長男は生後一か月で早逝。大正四年三月十日夫哲逝去。その前年の三年七月から高鍋実科高等女学校教授嘱託となり、八年六月から同校寄あらせ荒瀬力ツ一八七一人第8編宿舎の舎監となり、十三年四月からは組織変更により高鍋高等女学校教諭兼舎監として勤務。かたわら免許を生かして生け花や茶道を教授し、高鍋和歌の会に属して秀作を残している。十年から三年間は高鍋小学校の裁縫専科教師を兼ねていた。カツはつとに幼児教育の必要性を説き、婦人会などに熱心に幼稚園設立を勧め、大正十三年四月他にさきがけて高鍋幼稚園の開園に導いた指導者でもあった。昭和四年四月同志社女学校専門部生徒監主事兼寮務主事に任ぜられ、八年三月六三歳で辞任するまで教職通算二五年、特に舎監を勤めること長年、信頼敬慕される慈愛の人、よく教え子たちの面倒をみ、直接媒酌人となったものだけでも六O組を超すという。東京帝国大学法学部を卒業して住友金属株式会社に勤め、その将来を嘱望されていた二男達也は十四年十二月に急逝し、以後は先に昭和九年十月長女和子が高鍋町出身の海軍軍人瀬戸山八郎と結婚していたので、娘婿瀬戸山宅に身を寄せることになり、瀬戸山の自衛隊入隊後は、ともにその任地に移り住んでいたが、三十二年六月二十六日浜松市広沢町の航空自衛隊官舎で八七歳の生涯を閉じた。墓は高鍋町高月に荒瀬哲・達也の墓とともにある。1158じゅうじ石井十次一八六五(慶応1年)生一九一四(大正3年)没石井十次日本社会福祉事業の先駆者である石井十次は、慶応元年四月十一日、上江村馬場原に生まれる。父は高鍋藩土石井万士口、母は乃婦子、その独り息子、性剛直果断、仁慈の心あつく、開拓の精神に富み、早くキリスト教を信じ、我が国社会救済事業の鼻祖といわれる。明治十五年岡山医学校入学、十七年郷里の青年のために馬場原教育会を起こす。後学生五人を伴い岡山市に帰り、その学資を分かちながら、不あんま足を補うため按摩を習い、夜は笛を鳴らして街頭に立った。二十年春、脳症の療養と医術の実地研究のため、岡県口巴久郡大宮村上阿知に移り、隣接の大師堂に一貧児を救い、更に二人の薄幸児を引き受け、九月に三