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概要

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若年寄辞退を実現した。更に物情騒然たる中で、慶応三年鈴木来助、城勇雄を従え薩摩藩に使いし、高鍋藩の実情を説き、以後両藩協調して時局に対処するに至った。戊辰戦争のとき、種節は京都にあり在留の藩士とともに薩軍に合流して朝廷方警護に当たった。藩制改革後は少参事に推され政務に従ったほか、後に島田小学校長となり、旧家中の女子を募集して就学させ、みずから教授した。種節は幕末から維新にかけて高鍋藩の行財政改革の指導者として活躍したが、明治二年の版籍奉還後には執政となり、落会計局知事を務めた。実業奨励に力を注ぎ櫨の良種を取り寄せて栽植を勧め、信濃の桑栽培法を調べ良苗を持ち帰り桑園経営を庶民に教えた。また太平寺に蚕室を建て養蚕をすすめ、士族授産のためお仮屋長屋に機業場を聞き、京都から教師を招いて女子に伝習させた。俸禄を失い貧窮に苦しむ旧士族の救済のため、貸金会社の代耕舎を設立し、川南村甘付海岸が良質の海苔を産することに着目、浅草海苔の製法を習ってその改良を促した。みずからも早く実業に力を注ぎ、家号をしようゆ「最中屋」と名付け、酢、醤油、酒類を製造販売し、商を践しむ風を打-破じ自立自営の精神を鼓舞した。物明治十年西南戦争の際、西郷軍参加を主張する意見が多い中で、弟黒水長憶らとともに順逆を論じその非を説いて譲らず、座を立って先君の墓に参り次の和歌を詠んだ。桜花霞こめても香ばかりは都に送れ峰の春風Aついに同志九人(九烈士〉旧藩米倉の獄に幽閉され、病気のため明治第8編十年六月二十三日島田の獄中で没した。享年六四歳。墓は高鍋町高月の大竜寺墓地にある。種節の男子四人は世に「四哲」として名を知られるあらかわ荒川リク一八七一(明治4年〉生一九六六(昭和4年)没高鍋町大字北高鍋八一四番地(小丸)父荒川盛明・母チカの長女として生まれ、五歳のとき父盛明は西南の役で西郷軍に加わって田原坂で戦死、母の手一つに育荒川リクっ。二十一年(一八八八)高鍋製糸会社の蒸気機械製糸の新工場設立に備えて、十九年(一八八六)数え年二ハ歳でほかの二人の士族の娘とともに、選ばれて先進地群馬県に研修生として派遣され、前橋・桐生で製糸・機織を研修し、次いで最新式の機械設備を持つ富岡の官営工場でも見学実習を行って帰郷。三五歳で高鍋製糸会社の主任婦教となり、則松クラとよく協力して幾百の女工の教育指導に当たり、昭和初期まで四十数年、リグの指導を受けた女工は約一万人、そのうち後続婦教となった者数百人に及ぶといわれる。大正末期財津吉憲らとはかり、「高鍋製糸養成所」を開設して、県下各製糸場の中堅女工を集め、後進婦教の養成に専念している。リクは製糸功労者として、しばしば表彰を受けているが、特に有吉忠一知事から記念の懐中時計も贈られている。晩年は長男盛潔(県農地委員)、次男如矢郎(熊本日日新聞宮崎支局長)のもとで本県製糸業界開拓功労者としての九六歳の長命で没した。墓は回の上墓地にある。1157