ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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物江戸城の半蔵門および石垣を修築した功により、時服十領を賞賜され、家臣などもまた賞を受け面目をほどこしている。宝永七年間八月二日、種弘に家督を譲り、上江村長法寺池の近くに隠宅を設け、上江お茶屋と称し風月を楽しんでいた。享保元年間二月二十六日、川南郷山元で狩猟中に倒れ、同夜半上江お茶屋で没し、大竜寺墓地に葬った。享年五九歳。法名は天祐院殴慶薮宗善大居士。一七一八(享保3年)生人第8編あきづきたねみつ秋月種美一七八七(天明7年)没一口子保三年五月十五日(一説に二十日〉種弘の長男として高鍋域内で生まれた。母は花崎すなわち柴垣是本の娘大心院。幼名は兵部。享保十七年十二月十六日、従五位下佐渡守に任じ、十八年二月三日元服した(本藩実録の叙爵年月日は誤記〉。同十九年十二月七日、家督を受け、同二十年六月六日初めて入封し、寛保二年六月十一日、筑前秋月の領主黒田甲斐守長貞の娘と結婚。種美は先代からの経済振興策を受け継ぎ、互にうるしこうぞしゆる助け合うことを奨励し、林業牧畜にも意を注ぎ、漆、緒、様相、茶、はぜ櫨、杉、槍などの植え付けを奨励し、指杉仕立物に関する三か条の規定を設け、一方では倹約令を出して徹底した財政引き締めを行った。また、父種弘の志を受けて学問武芸を奨励し、才学ある青少年を選んで学ありのり資を与え、江戸・京都に遊学させ将来に備えた。内藤有全、田村留斎、財津十郎兵衛、大塚精斎、千手際斎、内藤有恒、坂田字平次らはそれによって輩出した学徒であり、後の明倫堂の創設に貢献し、その教授となった人々である。種美の施政は、理財の面でも文教の面でも、充実に向かっての基礎を固め、その成果を将来に期待するという、いわば内にこもって充実する施策であった。種美は子女に恵まれ、長男は種茂、二男松三郎は米沢藩上杉家を継いただよしで鷹山と称し、三男頼完は人吉藩相良家、四男忠快は大久保家を継ぎ、たねやすのぷのり五男種懐は、新小路秋月家を輿し、六男信義は高家中条家、七男利国は斎藤家を継いだ。1156宝暦十年七月七日、四三歳で隠居し、明和四年七月四日長門守に改めた。天明七年三月初め右耳の下にはれ物ができ、当時江戸の名医と言われた西良仲、解体新書で著名な蘭方医杉田玄自らの治療を受け、鷹山も出府し種茂とともに看病に当たったが、天明七年九月二十五日没し、麻布広尾の光林寺に葬った。享年七O歳。法名は竜光院殿前長州大守英巌宗俊大居士。遺髪を竜雲寺墓地に葬る。一八一四(文化孔年)生一八七七(明治叩年)没あきづきたねよ秋月種節文化十一年、高鍋横筏に父水筑彦太郎長周、母大塚静氏の娘、その長男として生まれる。水筑家の先祖は藩主秩月家から出たが、筑前の水域地方を領し、水筑姓を名乗った。明治維新後、種節のときに再び秋月の姓に復した。小一郎、種世、長節と呼び、号は陶淵明に私淑して希陶と言いその住居を常秋月種節亀関草堂という。種任、種股二代の藩主に仕え、特に種股の親任が厚かった。弘化中に物頭となり次いで参政に進み藩政の改善に努めた。慶応二年、家老に昇進二百石を受けた。当時幕府の威信衰え、その回復に人材を求め、世子秋月種樹の学問識見とその芦望に着目、若年寄に迎えようと内命を受けた。世の成り行きを配慮した種節は城勇雄らとその聞に奔走し、ついに