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概要

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一月六日に隠居、文政二年十一月六日、江戸麻布邸に役し、広尾光林寺に葬り、遺髪を竜雲寺墓地に葬った。享年七七歳。法名は清観院殿前佐州大守真乗宗門大居士。その思想は「明倫堂記」に見ることができる。物一八一三二(天保4年)生一九O四(明治訂年)没i;1111 1 ;たねiJEt-峰眠瞳麗政治家、高鍋藩十代藩主秋月種h----圃園開酬とみ‘.聞肢の弟、天保四年十月十七日、江・眠qa---園樹戸(東京)麻布邸に生まれる。幼EE---Fa--14aa雷且しようけいA吋d'幽閉ー\1名を政太郎、松渓・楽山・古香寺、\観【げぶ色F由E匝闘秋などの雅号がある。昌平聾に学び1・f2・園西島蘭渓・塩谷記・安井息軒・F!:ー祖国曹司週芳野金陵ら天下に名ある学者の教授を受け、早くから小笠原・本田二侯とともに「天下の三公子」と呼ばれ期待の的であった。文久二年(一八六二〉江戸幕府の学問所奉行、翌年若年寄格となり将軍家茂の侍読を兼ね将軍の上洛供奉となる。元治元年感ずるところあり、辞任し再度の任命も辞して受けなかった。慶応四年維新政府に招かれ、木戸孝允らとともに参与職となる。ついで明治天皇の侍読となり、下局議長を兼ねた。また建議して公議所を設けその議長に任ぜられた。版籍奉還、廃藩置県に率先協力し、維あきづきたねたつ秋月種樹新の大業の成就に尽力した。やがて大学小監・大監(文部大臣格)とな人り、新教育制度の樹立に参画し、大学規則・中・小学規則の発布に功が第8編あった。明治五年一月から十二月まで、欧米視察の途にのぼり、帰国後華族会館設立の事に当たった。七年兄種肢の死去で家督を継ぎ、翌年元老院議官となる。十年西南戦争起こるや高鍋の汚名を残さぬために奔走努力した。十四年種繁に家督を譲り、高鍋に寄留し千歳亭に入り、高鍋学校生徒の指導に当たり、漢文や作文を教授しかたわら書画の揮竃を楽しみとした。このころの作品が多く残されている。二十三年十月、錦鶏間極候を仰付けられる。二十五年東京に移住し悠々自適、風流を楽しみ詩文をよくし、「万歳亭の記」漢詩集「古呑公詩紗」などがある。書に優れ超凡の風韻いつやがあり、「松上之鶴巌上之亀」の絵は明治天皇の乙夜の覧に供せられた。二十七年一月、貴族院の勅選議員となる。=一十七年従二位勲二等に叙せられ転地療養中神奈川県片瀬の別荘で十月十七日逝去。享年七二歳、高鍋町高月大竜寺墓地に葬る。一六五八(万治1年)生一七一六(享保1年)没万治元年五月十五日、種信の長男として生まれる。母は松浦士宮岐守隆あきづきたねまさ秋月種政信の娘。幼名は万作、後に兵部と改めた。延宝元年十一月元服。同五年閏十二月二十六日、従五位下山城守に任じ、天和二年正月十八日長門守となる。貞享元年四月四日、松浦壱岐守棟の娘と結婚し、元禄二年二月たねくに三十日家督を継ぎ、二万七千石を領し、木脇三千石は弟種封に分知した。これを木脇分知という。秋月氏存続のため万一の場合に処する父種信の配慮であるという。父種信によって軌道に乗った藩政の確立をいっそう前進させた。広く人材を求めて登用し、行政の機構制度を整えるとかいこんためいけともに、財政の充実に意を注ぎ、開墾事業を推進し、溜池や用水路を造成して農地の拡大を図り、牧畜では馬牧を奨励し、林業を振興した。高鍋藩の農政の基礎は種政の代に定まったと言われる。宝永元年九月には1155