ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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寛政八年月日不詳、松岡喜作の第二子として生まれ、横尾三右衛門の養子となる。字は直卿、仲治と称し鐸峰と号した。鐸は大鈴で尾鈴山を意味している。人となり沈毅にして学を好み、家は元貧しくみずから刻作していたが、常に書物を持参し少憩ごとに読書して労苦を慰め、筆耕して灯油を買い、灯油がなければ松明をともして読書するという風であった。養父母には実の父母より手厚く仕え、妻子に対してもやさしく、声音を改めることなく、近隣の人々は皆、及び難い人物として敬意を払っていた。初め千手八太郎廉斎、大塚観欄に就いて学んだが、藩主種任は仲治を江戸の古賀伺庵の門に学ばせた。修業数年で藩に帰り、文政十一年二月二十五日、明倫堂助教を命ぜられ、教授に支障ある節は代講もするよう命ぜられた。従来徒士で助教になった先例はなく初めてのことであった。天保五年三月十八日一代小給に進んで明倫堂教授に任ぜられ藩主の侍講を兼ねた。嘉永四年十一月八日世襲小給となり、晩年には落士としては最上級の給人となり物頭となった。異例の抜擢であった。仲治は教職にあることほとんど四O年、厳もってみずから持し、寛もって人を導き、過激奇異の行いを好まず、終日穏やかにして競うことなく、諸生からうやまわれたばかりでなく、藩内すべてから尊崇され、権臣務吏も謹んでその言に従ったという。寄宿寮の切偲楼を創立し、学校予算を増加物し、門閥の者が年若くして要職に就くことをやめたのもその建議によったのである。年六Oを過ぎ、しばしば隠退を請うたが、そのつど慰留さ人れている。ある日、校内で突然中風を発し初めて致仕を許され、養老料第8編を給せられた。教授の後任には、文久三年八月十九日に門弟の城勇雄が任命された。仲治は家居して病を養い、風月に吟噺して性情を養い悠然として命を待った。藩主種股は大事があれば必ず仲治に諮問し、ときに城内に召し、あるいは酒食をその家に贈り優待は少しも表えなかった。明治九年十月三十日年八一歳で没した。瑞松山竜雲寺墓地に葬り、域重えら淵勲が碑銘を撰み田村義勝がこれを書いたが、今は宮崎市春の山の墓地に移されている。その著書に続本藩実録二二巻、拾遺本藩実録一一巻があり、ほかに明倫堂記録に教授横尾仲治の名で提出した存寄という形式の諮問の答申告百が数通ある。またその家に自著の年譜があったが、碑銘撰定の際これを失ったという。ょこおみのる一八ニO(文政3年)生横尾菓ー一八九七(明治初年)没文政三年月日不詳、父敬、母藤子の長男として上江村松本に生まれる。字は希寛、」初め信太郎と称し後、潜蔵に改め、松堂と号した。天保十二年江戸に出て古賀伺庵に学ぶこと三年、弘化三年一月父仲治病気により助教となって代議した。早く経済に志し文をもって名を成そうと欲しなかった。かつて会計官任命の候補となったが、数字に明るくないということで保留された。栗はこれを聞き発憤して数学の撞奥を究めた。九J'り壮年になって文学に偏するを憾み、示現流の剣術を修め、その奥儀を極めた。かつて高鍋藩の兵学がじゅうぶんでないのを歎じ、甲州流、越後流諸家の兵学を学び、藩主はその志を喜び、兵学研修のため江戸に遊学させた。しかし洋法の最も優れていることを知り蘭学を学んで洋法を究めた。帰国して数年地方官を歴任し、文久三年藩の兵制改革に携わり、上江屯長となった。明治元年の戊辰戦争には八月羽越遠征の高鍋隊の救援隊を指揮し到着したときは既に鎮定されていた。明治二年三月明倫堂教授に任ぜられ、同年九月、公選によって左局権大属となり、廃藩後、宮崎県1197第二十四区長となり、郡制が敷かれた際は児湯郡の初代郡長に補せられ