ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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物目付へ転役のため、綾部恒兵衛が師範仮役を勤めた。富太郎は同年九月病が癒えて師範に復帰したが、翌十年再び病み引退のやむなきに至った。寛政十二年六月二十九日没した。享年四九歳。城東の元紙園の先壁に葬った。関氏を要ったが、子が無く、姉妹と二弟があり、姉は終身嫁がず、妹は山村氏に嫁した。弟の貞信が兄の跡を継ぎ、次弟貞寛は福嶋の山内貞英の跡を継いだ022せんすけ一六八二(天和2年)生山内仙介一七六九(明和6年)没天和二年十月十一日生。源姓誇は貞良。幼名は次郎吉。長じて竹右衛門と称し、後更に仙介と改め、日南と号した。その先祖は出羽貞綱、毛むすめ利氏の臣で、天文中(一五三二1五五)毛利氏の女に従って秋月家に仕え、秩月家の転封に従い福嶋に移った。仙介は元禄十一年(一六九八)一七歳のとき、江戸に遊学すること四年、同十六年(一七O三)尾張(名古屋)の泰雲寺の僧湛海に学び、更に宝永二年(一七O五)京都に転学し、学業大いに進み、宝永四年正月二十九日藩主種政に召され、中小姓に列し、知行三O石を給せられた。種政、種弘、種美三代に仕えて経学を講じ、藩学の祖といわれる。室は梁瀬氏、六男二女があった。孫貞昌は明倫堂師範となった。明和六年一月二十七日没した。享年八八歳。墓は高鍋元祇園墓地にある。人第8編やまなかっしげ山名勝重一八七六(明治9年)生一九五九(昭和M年)没山名勝重は眼科医として特に有名。明治九年十一月一日高鍋町南高鍋筏小路山名重三の二男として生まれる。幼い時に両親を亡くし、祖母に養育される。生来身体虚弱であったが、意志は堅固であった。二十四年高鍋小学校卒業後長崎市私立以文中学校入学、成績優等にて翌年特待生として月謝を免ぜられる。卒業後第五高等学校医学部に入学、成績優秀につき卒業後直ちに特選により、同校助手を拝命した。その後長崎県玉ノ滞産婆学校勤務、やがて大村私立病院副医院長に迎えられた。三十二年熊本師団志願兵となり三等軍医に任ぜられ、除隊の後木城村に開業し、やがて東京遊学を志し、東京帝国大学河本限科教室において眼科を専攻し、かたわら開業医大西克知博士に師事し研究を積んだ。三十四年高鍋町小丸に眼科医院を開業した。眼科医としてのすぐれた技量は広く伝わり、遠隔の地から診療を求めて来る者も多かった。三十五年以後は児湯郡医師会副会長、医学会長、児湯郡医師会長に就任、昭和七年まで、宮崎県医師会評議員、副会長を歴任し医師会発展のため尽力した。また経済的識見も高く、株式会社小丸社取締役、什二株式会社取締役、延岡電気株式会社取締役、舞鶴劇場代表者、高鍋郵便局長心得、旧株式会社宮崎銀行取締役などとなり金融界にも活躍した。教育面にも熱心で旧高鍋中学校(現高鍋高校前身)設立に物心両面にわたり貢献、財団法人高鍋中学校理事となった。十一年十二月嗣子山名重文に眼科医業一切を譲り余生を専ら自己本業1196山名勝重の趣味に生きた。紫川と号し、絵画、彫刻、骨董、詩文を楽しみ、紫川絵日記、高鍋城図などの遺作がある。三十四年四月四日、病魔のため八四歳で死去、高月安養寺墓地に葬る、墓碑銘は故山名勝重大人。一七九六(寛政8年)生一八七六(明治9年〉没横f尾ぉ敬f