ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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ただ信(常川〉に学び種茂、種徳、種任三公に仕える。安永十年一〉五月、綾部長英等と共に弾琴松の碑を立てた。寛政四年(一七九二)木城の比木神社が大風のため破壊したとき、祝詞殿の天井画も損傷したので苦心の末これを復元、その功により一代小給を認められた。「白鷺の図」(安田家蔵)「源氏物語絵巻(写)」などの作品が残っている。文化十二年(一八一五)十二月十六日、五六歳をもって没した。墓碑は船塚墓地。O六代義為利平次また利左衛門、後に李仙と号した。絵師狩野寛信(友川)に学び、種任公に仕えた。天保三年(一八三二〉十月五日、役した。墓碑は船塚墓地。O七代守義橋口無尽院の二男に生まれ、六代義為の娘婿となり安田家を継ぐ。兵士口後に李仙、閑鶴斎と号した。絵師狩野守道(探信)に学び種任公に仕えた。花鳥画の名手と称され典雅な画風で知られている。「聖徳太子像」(称専寺蔵)「袋戸下絵」(安田家蔵)などの作品が残って(一七八「美人画」し、Oる八。代天守1保世ょ十年r、八回、dノ一月二十六日没した。墓碑は船塚墓地。物安田守世(竜川・第八代)天保元年(一八三O〉五月二十七日、守義の長男として生まれる。利平次といい後に李仲、閑春斎と号し竜川と称した。一五歳から二O歳まで江戸の画塾にあり、絵師狩野守玉(探竜〉について修業した。画業のほか長沼流砲術免人第8編許、西洋砲術中位ならびに免許を得た。万延元年(一八六O)八月西洋砲術頭取に任命され、その後郷兵教示方、砲術副師の職を歴任した。明治になって藩内分郷絵図取調、宮崎県勧業課地図認め、日向園地図調整、高鍋学校幹事、上江小学校学務委員などの職に就き実績を残した。画業の主なものを挙げると、「折衷和漢図」は守世の最高の作品と言われ、「群鶴図」は六O歳円熟期の典雅な秀作、そのほか「仙女西王母図」は守世の最晩年の作、「一二国志関羽図」などが残っており、いずれも安臣家の所蔵である。絵巻物「後三年の役図」は「種樹」の署名があるが、竜川の描いたものと言われている。現在の木城町比木神社の天井絵「双竜の図」は竜川の作である。明治四十一年(一九O八)五月十九日没した。享年七九歳。墓碑の石は生前種樹からいただき、墓碑の文字も同公の書である。町内上江の谷坂墓地にある。一七五二(宝暦2年〉生一八OO(寛政ロ年)没宝麿二年(月日不詳)高鍋に生まれた。父は貞徳、通称琢磨、母は永友氏。源姓、字は林伯、富太郎と称した。若いとき、藩主種茂に従って江戸に出て萩原俗斎に師事した。安永六年七月、藩校の建設が始まると、財津吉恵、千手八太郎などとともに建設に参画した。翌七年二月二十四日、明倫堂が完成し開講式が行われ、財津土ロ恵、千手八太郎とともに師範(後には教授という)に任命され、大学校著察斎において「大学序」やまうちさだまさ山内貞昌を講じた。ときに二七歳であった。安永九年京都に遊学を命ぜられ、{子井小一郎黙斎ならびに山田某に学び、天明六年高鍋に帰り、再び師範となり、藩臣の子弟の教育に努めた。寛政九年病気のため、富太郎出勤ま1195で田村平太左衛門正明が師範仮役を勤めた。同年七月に平太左衛門は大