ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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物「潮音」に発表、昭和二年には鹿児島市において歌誌「山茶花」刊、これを主宰する一方、同四年には潮音の選者となり、八年十一月歌集「群落」を潮音社から発行した。終戦の年六月、高鍋へ帰住、以後高鍋町農地委員(地主代表)、熊本放送局九州ラジオ歌壇選者、高鍋町選挙管理委員会委員長、宮崎地方裁判所司法委員、宮崎家庭裁判所参与並びに調停委員、日向日日新聞短歌欄選者となり、二十五年十一月から宮崎県文化財調査委員(後に文化財専門委員〉を勤める。二十七年日向文庫刊行(日向興業銀行記念事業)に当たり、編集委員となり「上杉鷹山」を執筆、二十八年宮崎県文化賞を受けた。続いて同文庫の「秋月種茂と秋月種樹」を武藤麟一の共著として刊行するほか、三十年一月には宮中御歌会始めの儀に陪聴の光栄に浴し、翌年には第二歌集「尾鈴嶺」を発刊した。このほか著書に随筆「森の男」「萱島高伝」「安田尚義著作選集」「高鍋藩史話」「度々集」などがあり、四十三年一月一日高鍋町名誉町民の称号を贈られた。なお歌碑は高鍋農高正門、茶臼原石井十次墓地入口、鹿児島市城山頂上、鹿屋市古江峠、鹿児島県郡山町花尾神社境内などに建てられている。出演高の歌碑は次のとおりで三十四年五月建立。を倉Ij人第8編尾鈴山ひとつあるゆゑ黒髪の白くなるまで国恋ひにけり尚義四十六年六月高鍋史友会を設立、初代会長となり、町公民館の郷土史講座にみずから講師として勤め孜々としてうむところを知らなかった。四十九年十二月二十四日病没、享年九一歳。高鍋町民葬をもって葬られる。墓は高鍋上江の谷坂墓地にある。やすだりちゅう安田李仲ほか町内上江西平原の安田家は、代々藩の絵師として仕えた。安田家資料により画業を中心に人物伝を記す。1194安田李仲(初代自画像〕O初代義成利左衛門と言い、種春、種信二公に仕え、絵師狩野尚信に師事し、師より「狩野李仲」と改めるよう名を賜った。以来代々画号を「李仲」と名のるようになった。「自画像」の作が安田家に保存され、七九歳のとき、手鏡に姿を写して描いた作と伝える。元禄九年(一六九六)十二月五日没した。墓碑は平原の船塚墓地にある。O二代義正(正信ともいう)利左衛門、後に李仙と号した。絵師狩野常信(養朴)に学び、種信、種政二公に仕えた。宝永三年(一七O六〉十二月十三日没した。墓碑は船塚墓地よ。しゅ一きよしたかO三代義行(信行ともいう)後に義貴利左衛門、絵師狩野周信(如川)に学び、また示現流中位免許を受けた。種政、種弘、種美三公に仕えた。「不動明王国」が安田家に伝わっている。延享四年(一七四七)四月十五日没した。墓碑は船塚墓地。O四代甫行(利平次、後に利忠)修竹驚と号した。絵師狩野甫信(随川)に学び種弘、種美、種茂三公こぎゆラに仕え、一代小給にとり立てられた。「浬柴図」(称専寺蔵)「竹と鶴の図」(安田家蔵〉があり、気品のある端正な画風を伝えている。明和八年(一七七一)九月十九日没した。墓碑は船塚墓地。よしかたぎもんO五代義方(後に義門)利平次、安永十年正月から李仲と改め、好竹斎と号した。絵師狩野幸