ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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て貴族院議員として世の儀表となることを期するごとくであった。年若くして儒教を学びその造詣もすこぶる深かったが、第二次洋行中感ずるけいけん所があり、敬度なキリスト教徒となった。明治四十一年八月二十日、神奈川県国府津の自邸で没した。朝廷は勅使を差遣し幣自を賜った。葬儀は東京青山斎場で執行され、同所に葬られた。会葬者は一、000名に及び特に晩年尽力した東京市養育院感化部の生徒の一隊と、差遣された儀伏兵一大隊は葬儀をいっそう壮厳ならしめた。従二位勲一等、享年六四歳。墓は青山墓地にある。森t'*唱せ~ん一八三O(天保1年)生一八九二(明治部年)没著3天保元年二月十五日、上江平原に父吉太郎の長男として生まれ、幼名を仲太と呼び後に盈之進と改めた。字は子誠、宣著は秋月種樹公から賜った雅号である。森家は漢学の家柄で宣著の祖父森辰右衛門は篤学のゆえをもって、徒士から中小姓に昇格、宝暦七年(一七五七)野別府代官に登用された。著"'".!.森物宣著は江戸に遊学し、寛政=一博士の一人古賀精里の孫謹堂の久敬舎に学んだ。学成って帰郷したが、後再び江戸に出て学び造詣を深めた。江戸遊学中の嘉永五年鈴木百助に城勇雄とともに寄宿舎設立の要を進言し、後に明倫堂の寄宿舎切偲楼が実現する。明倫堂の学風は山崎門から古賀門に移り、宣著は横尾敬、財津吉一、横尾栗に次いで城勇雄とともにその教授となった。人第8編明治維新後、高鍋に塾を聞き子弟を懇切に指導したので、郷党の人々は深く敬慕した。更に串間や高岡にも私塾を営み、教育に力を尽くした。その後宮崎県書記官高田善一に認められ、明治二十一年には、当時宮崎にあった私立同志袋の教授となり、多くの人材を薫陶した。宣著は資性悟淡、寡欲正直で常に典籍堆積の中に読書し、その部屋は足の踏む所もなかったという。読書は精読型で、どの書籍も朱線がいっしようちゅうぱいであった。清貧に甘んじ酒を愛し、焼酎を飲みながらも読書を続ける熱心さであった。また屋敷内に珍樹珍花を植えこれを眺めて楽しんだ。屋敷の生垣に植えたつばきは宣著没後も長く残り、近隣の人々は「宜著つばき」と呼んで親しんだ。明治二十五年九月十九日病没、享年六三歳であった。門弟相謀り、墓碑を立て盛大な祭典を営んだ。墓碑は町内上江谷坂墓地にある。やすだなおよし安田尚義一八八四(明治η年)生一九七四(昭和羽年)没明治十七年四月十九日、上江村安田尚義西平原に父信義、母あぐりの長男として生まれる。家は世々高鍋藩の絵師を勤めた。公立高鍋学校、東京郁文館中学校を経て、明治四十年早稲田大学卒業。函館商業、を担当、た。鹿児島一中の教師となり地理歴史一中では野球部長となり全国中学校選抜野球大会にも出場し戦時中の昭和十五年七月から鹿児島県史蹟主事となった。これより193前、大正十一年六月太田水穂の主宰する「潮音社」に加入、短歌を歌誌