ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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物ざけりをもかへりみず愚かなる事ともを自筆にて書綴り呈上皐ん官:l.。人三好善太夫一八四五(弘化2年)生一九O八(明治4年〉没it略、処靖弘化二年五月士百、高鍋村筏、目玉重量むねとただかっー易十一!一一.問視世田村極人質勝の三男として生まれ一bIL E A42叫ん広副制む一M湾捜滑る。母は綾部氏、長兄夫折、次兄FLFWI41抗は兵衛義勝。誇は重毅、幼名充太田園隣町-tトh由三郎、退蔵と称し、宮田の三好家を4初組制継ぐ。少にして明倫堂に学び、日「IH--4w- H Jr泊制高耳水の教を受け、一二歳で大試験に抜群の成績で合格し、白銀五両の賞を受けた。元治元年二O歳のとき江戸に遊学し安井息軒に就いて学び、家兄義勝とともに三計塾の異才たねたつとされた。慶応三年世子秩月種樹の若年寄辞任問題に奔走周旋に努め、あっせんその途次薩藩の徳田彦二を斡旋して藩兵訓練の改革を図るなど、幕末落事に射針V、明治元年二月二四歳で大目付、九月用人に挺略された。明治二年徴土として維新政府に出仕し、待詔局判事試補、次いで待詔局参事、待詔院判官、集議院権判官に任ぜられた。その後帰落し少参事兼大いずはら監察となり、廃藩後、厳原県権大参事、伊万里県小参事に任ぜられた。十二月吉日第8編みよしたいぞう三好退蔵明治六年五月司法省に入り、山梨、東京、鹿児島の各裁判所の判事となり、同十年一月大審院詰、西南戦争が勃発すると長崎へ派遣され、元老院議官の旧藩主秋月種樹と連絡を取り、旧高鍋藩の救済を謀った。旧高鍋藩は日向圏内での孤立を避け、高鍋隊を編成して薩軍に投じたため、いかんともし難く、情勢の推移を見守るしかなかった。また、旧藩の指導層の人々の救出も失敗に終わった。同年四月九州臨時裁判所出張を命ぜられ、征討総督官の指揮を受け、騒擾国事犯の処理に当たった。明治十二年三月六日横浜裁判所長、十三年九月民事局長、十四年二月代言入試験委員、十五年二月参議伊藤博文が憲法調査のため欧州に派遣されるのに随行し、終了後も引き続き司法制度調査のためそのまま滞在し、十八年四月帰朝。同年七月司法少輔、二十一年十一月東京控訴院詰となり再びドイツに派遣され、二十二年四月帰朝して大審院評定官に任命された。二十三年八月二十一日大審院検事総長に任ぜられた。二十四年五月十一日来遊中のロシア皇太子(後のニコライ二世皇帝)を大津市内で巡査津田三蔵が襲って負傷させるという、いわゆる大津事件が発生し、国を挙げて憂慮した。三好は検事総長として、刑法第百十六条の適用は不合理であることを知りつつ、第百十六条の適用の論告をせざるを得ぬ苦しい立場に立ったが、結果的には大審院による無期徒刑の判決が下され、大審院の判決であるがゆえに一審終結となり、間接的に司法権の独立を守ることとなった。同年六月三日司法次官となり、二十五年二月刑法改正審査委員長となり、二十六年三月大審院判事ならびに大審院長に補せられた。二十九年十月七日願出て退官し、同月十日錦難問蕗候仰せ付けられ、正三位に叙せられ、また勅選による貴族院議員となり、翌三十年三月、弁護士名簿の登録を受けて民間法曹界に投じ、訴訟事務におうしよう鞍掌し、東京弁護士会会長となり、大いに同僚の推服するところとな1192った。三好は資性廉直で果敢、出処進退必ず節操を重んじ、事に当たって考慮深重、いったん決すれば貫徹しなければやまず、ときに情の激するとこうでいきは弁論甚だ努むるところがあったが、落着すれば釈然として拘泥するてんたんぎところがなかった。名利に悟淡で友誼に厚く、断訟は厳正、弁護士とし