ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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就任している。宝暦六年九月稽古改めすなわち、藩の教育について三か条の意見を具申し、何事も根本を立てることが肝要であるといっている。宝暦九年三月、種美の二男松三郎すなわち後の鷹山が米沢藩上杉重定の養子となる内約が調い、八月には秋月家の親威筋に当たる人士口藩の相良遠江守が急逝し、同藩の家老万江長右衛門から、末期養子についてよりさだの懇請を受けた。善太夫は種美の三男頼完を養子とするように努め内約が調った。同年十月、人吉藩から頼完を迎えに用人豊永清右衛門が人数を召し連れて来た。善太夫は家老として多くの供を召し連れて人吉まで送り届けその行を盛んにしている。人吉から帰りようやく政務の余暇を得た善太夫は、年わずかに九歳の若君松三郎が上杉家に入ることを喜ぶとともに、責任の容易ならぬことを察し、「恐れながら」の語で始まる「成長の後本折節御覧下されたい」と誠心をこめて書き記してこれを呈上した。また宝暦十年八月、松三郎が桜田の上杉邸に引き移るはなむけときにも、再び一編の訓言を瞳にしている(賎山略伝参照)。その二書しんしには、善太夫の闇斎学の深い教養と高い識見、車整な人柄が行聞ににじみ出ている。鷹山は生涯二通の書をそばから手離さなかったという。現在も上杉家に保存され、その原本のコピーが高鍋図書館にある。善太夫はその年の十一月二日江戸で没した。享年五七歳。その墓は、高鍋町の竜雲寺墓地にある。今、私米沢市から高鍋を訪れる人々は善太夫の墓にぬ一書を、かずくのが常である。物上杉家への養子の内約の調った際に献じた訓言は次のごとくである。人三好善太夫重道の訓言乍恐今度公子の上杉御家へ御養はれ成され候御事、大なる御さゐわひは偏に御両親様の御思徳によりてなり。殊更心華院様(生母)御由緒を以てのことなれば、慈母の御恩ふかき所御わすれなく、此第8編上御双方様への御孝行の第一は、御養家様方へ御深切をつくされ御っかへ成さる儀肝要に奉存候。次では御実方御親兄様へ御むつまじく遊ばさるべし。相似貴賎ともに人々我身に天より受け得たる明徳をくもらざるよふに御修行なされ候御事専一に御座候。其わけは、下賎にてもわか身明らかになり善道を行はざる時は、小家もおさまらず、ましていわんや貴人は御身随分と明鏡のごとくになくては、下の善悪知る事あたわず。たとへ良臣ありとも朋輩の事なれば、善悪たやすく申上がたくさしひかへ候へば、善人悪人御見ちがへ在之、善人遠ざかり悪人近づくやうになりては、自然と君も悪にうつり、小なれば身をうしない、大なれば家をほろぼし、国民難儀に及ぶ事なれば、別て大人は御幼年よりの御そだち御修行大せつなり。まして御養子ともならせられ御他家をも御つぎなされ、万一御修行なく御不明にて御養家治り申さず候へば、大なる御恥辱にて、実父の家を治め得ざるよひとしおりは其つみ深〈、御双方様へ御不孝と相成るゆえ、一入公子御身のうへ御養育御大切に奉存候。右御修行は思をわすれず、恥を知り、人道をよく御合点あり、四書、小学、近思録の御学聞を御一生涯御慨怠なく成され候様奉願候。とかく善悪ならび不立ものなれば、善に進めば悪は退き、悪行なれば善ほろぶるもの。さればかりそめにも悪事にかたむく事をなされず、善事に御染なさるべく候。尤も上杉御家柄ゆえ御良臣多くいかさまよき御教訓も御座あるべく候へども、当時身不肖ながら老職を相勤る事なれば、末んでまで公子の御繁栄を願ひ、御成長の後も折ふし御覧下され、寸分の御為にも相成候へば、生々有難き仕合せに存じ奉る心底を以て、諸人のあ1191