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概要

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物救済が図られ、二十六年一月武藤はその社長に推された。「君の事に当るや、任の大小、位の高下を論ぜず、必ず其力を尽す。故に其事みな能く成績を挙ぐ。然れども其の健康の漸く表ふるや、自ら予知する所ありしが如く、逝去の前年秋月子爵家の家令を辞し、没年の春、製糸会社の取締役を罷む。君少より篤志道を学び、実践弱行、至誠人を感動ぜしむること甚だ深し、君が日常の行動は即ち謂はゆる武士道その侭なりき」(高鍋郷友会報告第臼号)。以上は武藤東四郎小伝の一節である。武藤は戊辰の役に高鍋隊の総指揮を勤めたこともあって、二十六年以降高鍋招魂社〈現在の護国神社〉神職を勤めた。肝臓を病み明治三十八年八月二十四日没した。享年七六歳。墓は高鍋町上江の竜雲寺墓地(山下の近く)にある。人第8編一八四四(弘化1年)生一八六八〈慶応4年〉没たねよ弘化元年高鍋横筏に父種節(後に秋月姓)、母久子(鈴木百助長女〉のゆずる長男として生まれる。幼名兵太郎、後に弦太郎と改めた。誇は弦、{子は侃弦と称した。明倫堂に学んだが、安政五年、一五歳の時、豊後佐伯の秋月橘門の家塾に学んだ。弦太郎は正直寛厚で人情に富んでいても、秀才型でなく鷹揚で目立たないほうであったが、この塾の三年間に人柄が一変し、家郷の人々も驚いたほどの努力家であった。帰郷後再び明倫みずきつるたろう水筑弦太郎堂に入学し、やがて藩主種肢の小姓となった。一年足らずで遊学を命ぜられ、元治元年(一二歳)三好充太郎(後に退蔵)とともに江戸に赴き、紀州藩の儒者渡辺魯輔(荘虚)に学んだ。更に慶応三年五月からは安井息軒の三計塾に入った。当時勤王佐幕で世情騒然としていたから、弦太郎のような青年学生も国事に力を尽くした。同年十二月の末京都へ使者として赴くよう命ぜられた。しかし出発前日の二十五日、幕府の江戸薩摩藩邸焼き打ちがあり、同邸の副留守居をしていた脇田市郎が高鍋藩に救いを求めて来た。このとき弦太郎は鈴木来助とともに脇田を救い出すことに尽力、脇田を従僕に仕立て江戸を後に京都へ向かった。しかし駿河の原宿で捕えられ江戸伝馬町の獄につながれた。翌年二月一日から疫病にかかり、五日には釈放されたが、慶応四年二月十日、二五歳の若さで世を去った。獄中で次の詩を作った。常ニ諦ス文山正気ノ歌。夢一一腰剣ヲ磨イテ愁魔ヲ斬ル。冥々亦澱グ丈夫ノ一決。独リ墜親ノ在ル処-一多シ。江戸麻布の崇巌寺に葬ったが後年改葬して、墓は高鍋高月の大竜寺墓地にある。明治二十四年靖国神社へ合間せられた。みよしぜんだゅう一七O四(宝永1年)生三好善太夫一七六O(宝暦凶年〉没宝永元年月日不詳、父は市弥、母は内田主水の娘、その長男として高鍋村宮田に生まれる。三好家は元、安芸国広島三好郷の出で、祖父門国治部右衛門が第三代種信のとき召し抱えられた。後、姓を三好に改め1190た。詳は重道、藤馬と称し、後に善太夫と改めた。初め祖父治部右衛門が善太夫と称し、父市弥も、重道も善太夫を襲名したので、重道は三代目の善太夫であるが、後で述べるように、上杉鷹山に二度の訓言を奉ってけんでんから重道が喧伝され、善太夫といえば重道を指すことになったのである。重道は享保十一年二三歳で家督を継ぎ、同十五年者頭、元文二年九月一日三四歳で用人に任ぜられ、宝麿五年六月九日、五二歳のとき家老に