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概要

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物ア・スウェーデン・ベルギーの公使館に勤務。明治四十二年(一九O九)オーストリアの特命全権大使となった。大正三年(一九一四)退任して宮内省に入り、学習院の教育に当たる。退官後は読売新聞社長となり、第一次世界大戦後のパリl講和会議には全権顧問となった。同十年(一九二一)朝鮮総督斎藤実に、その人格識見、豊かな経験を、朝鮮統治に寄与して欲しいと懇請されて京城日報社長に就任した。長い期間にわたり、情報活動の中で諸方面の思想感情の融和に尽力した功績は大きい。昭和二十年(一九四五〉には太平洋戦争の終結、早期講和の実現を吉田茂らと図ったが、この年六月二十五日、東京で病没した。享年八八歳。だいりゅうじ高鍋町大竜寺墓地に葬られた。読書家で知られていた左都夫は、常住座臥読書に親しんだ。その逝去後、和・漢・洋にわたる数千冊の蔵書が遣されていた。明倫堂文庫の蔵書約一万六、000冊は、明倫堂書庫の蔵書を主体とし、毅堂書庫の蔵書も含まれている。嗣子捷五は亡父の遺志を思い、慰霊の意をこめて、フランス語の原書千余冊を外務省に寄贈した。外務省ではこれを「秩月文庫」として収蔵したが、仏語書籍のほかの英書・独書・多数の仏文雑誌はその利用の便を考えて国会図書館に移管されている。蔵盆一回の内容は政治・外交・歴史・哲学・文学・心理学・経済学・自然科学にわたっている。A第8編あきづきたねしげ秋月種茂一七四三(寛保3年〉生一八一九〈文政2年)没寛保三年十一月三十日、江戸麻布の藩邸に生まれた。種長七世の孫、父は種美、母は黒田氏、筑前秋月藩主黒団長貞の娘ハルである。詫は種たねひで茂、故あって天明元年種穎と改めたが、寛政三年種茂に復した。幼名は黒帽子、後に兵部と改めた。米沢藩の上杉家を継いだ治憲はその実弟である。種茂は鶴山と号し、治憲は鷹山と号した。宝麿七年十二月十八日山城守に任じ、安永九年十二月十二日佐渡守、寛政三年十一月七日右京154亮に改めた。早くから紀平洲に就いて学んだ。宝暦十年七月八日、父の一八歳で家を継ぎ、翌十一年五月初めて封地高鍋に入った。種茂は聡明で学を好み、寛仁大度、よく人の意見を容れ、父祖の遣業を継ぎこれを発展させて高鍋藩の全盛時代を実現した。初入部の後、小田岡右衛門らの新進気鋭の人材を登用し、藩政全般にわたり斬新な発想と周到な計画によってさまざまな施策を実施した。溜池や水路の築造、大規模な開墾事業や水除工事等は、歴代の藩主中随一の実績を残している。換金作物の植え付けを奨励し、木炭の製造、木材の移出等山林資源の開発利用を促進し、馬牧を盛んにして農業生産の増大と牧畜収益の増加をはかるなど経済の充実につとめた。また、庶民の生活にも心を用い、農民の三人以上の子供には、一日米二合または畠地物(麦)三合のいずれかを支給し、産婆を大坂から招轄し、ばくちゃ間引きを厳禁し、双子の出産には貴賎を問わず扶助料を給し、朝鮮にんじんを栽培して藩庫に蓄え、薬価に乏しい者に施し、あるいは社倉法を準用して足軽役米法を実施し、江戸勤務の足軽の生活を援助した。特に、儒臣千手八太郎輿欽の議を用い、藩校明倫堂を創立し、みずから「明倫堂記」を作って建学の精神を明らかにし、人材の育成に努めた。また、法令を整備キC争4・AJ怜,P6して士民の心のよるべきところを示し、庶民教育のために「郷閏学規」おとな「郷闇学規聖語国字解」を著し、毎月十六日、庄屋や町乙名宅で庶民に読み聞かせるようにした。更に千手八太郎の献策をいれて福嶋に「社倉」を設け、「福嶋山西社倉条目」を制定した。実弟上杉鷹山は兄種茂について「吾、学業ハ兄ニ若カズ、タダ兄ノ藩小ナリ。故ニ沢ヲ被ルす〈な者鮮シ。惜シムベキナリ。」と評したという。天明八年(一七八八)十隠居により、