ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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し、同地に大きな記念碑を建立した。碑文は、秋月種樹の撲である。三十二年農商務大臣から蚕業振興の功により、金壱封を贈られ、大正五年大日本蚕糸会宮崎支部長から功労を追賞された。現在の高鍋町役場は株式会社高鍋授産場の跡である。(天保ロ年〉生一八六八(明治1年〉没天保十二年、上江村平原の平林勘兵衛忠敬の次男で忠恕の叔父、同村いみな松本の福崎浪十郎重明の養子となった。誇を重範という。年少のころから文武を修め、後藩命を受け江戸に上り曽根氏の門に入って数年間、西洋砲術を学んだ。高鍋に帰ると藩から砲術師範を命ぜられた。ふくぎきりょういち福崎良一一八四一慶応三年(一八六七〉徳川幕府は大政を奉還し、戊辰の役が始まった。高鍋藩は武藤東四郎総指揮のもとに鈴木来助を隊長とした高鍋隊を編成し、同四年六月北越征討軍に加わり越後方面に出動した。総勢一一O名、四分隊編成で京都を出発、北陸路を新潟方面に向かった。福崎良一一は高鍋隊の小隊長として各地に転戦、武功を立てた。越後口せんぼうに出陣し、明石藩の兵とともに征討軍の先鋒となり、新潟の賊を破り、進んで薩摩兵と協力して山熊田に陣を構えた。福崎小隊長は隊員二十余名を率いて、雷村口の山上の台場を守備した。八月二十八日の朝百余名物の圧内兵の猛襲を受け、善戦奮闘して一歩も退かなかった。やがて武藤東四郎らの援護もあって敵軍を撃退したが、高鍋隊からも五名の戦死者を出した。高鍋の北越戦では最大の激戦であった。この日の戦闘で福崎小隊長の行方が分からず鈴木来助隊長が部下を率いて探したところ、台人第8編場から少し距った山林の中で、身に三弾を受け割腹しているのを発見した。享年二八歳で、郷里の夫人は妊娠中であった。明治二年六月、藩主から知行一五石加増の行賞が遺子に与えられた。基は町内上江の谷坂、戊辰の役戦没者招魂墓地にある。ぶしとうとうしるう武藤東四郎一八三O(天保1年)生一九O五(明治犯年)没天保元年八月三日高鍋横筏に生まれる。一五歳のとき藩主秩月種肢の小姓となり、その後番頭、物頭を経て、=一五歳で総奉行に進み、藩政に参与した。江戸藩邸に勤めること数回、公務の余暇に郡山藩山脇正準に兵法を学び、更に武藤東四郎洋式練兵を修め馬術にも長じた。戊辰の役に当たり、慶応四年六月征東総督の支配下に属し、高鍋隊の総指揮として新潟・山形方面に従軍、各地を転戦し勲功を立てた。明治元年十一月十六日京都に凱旋した。明治三年高鍋藩の少参事に任ぜられ、兵賦局判事に補せられた。廃藩置県後、第七区児湯郡高鍋村戸長、第四大区区長を歴任した。西南戦争が起こると、高鍋地区の大区長の立場から黒水長髄、柿原宗敬らとともに有志を集め対策を協議したが、薩摩方の勢力圏にあり、ついに西郷軍に従うこととなり戦い敗れて官軍に降った。十=一年特赦によって許され、帰郷して学校世話係となり十七年十月からは南北高鍋村、蚊口浦村、高鍋町の戸長を勤めた。明治新政となって旧武士などは世禄を失い、金禄公債証書を受けたが、多くはこれを消費し困窮する者も多かった。十二年七月金禄公債を1189資本にして、高鍋に保存株式会社が設立され銀行商社業務を通して士族