ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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物平島敏夫司法大臣秘書官、満州に出向、満鉄社長秘書官、協和会総務部長、錦州省次長となる。そののち二か年欧米留学。昭和三年川村竹治台湾総督の総督秘書官となる。退職後七年宮崎県選出衆議院議員当選、十年渡満し満州国協和会事務局次長、南満州鉄道株式会社理事、満州電業兼満州電気化学工業理事長を経て満鉄副総裁となり、偉大な足跡を残した。二十年八月終戦を迎え、後事を処理し、同胞引き揚げに尽力した。公職追放解除後、電源開発株式会社理事、満蒙同胞後援会長、大東文化大学長および南九州大学理事長、天竜川開発筆頭理事として実績を上げた。人第8 *肩三十一年第四回参議院議員選挙に宮崎県地方区当選、以来三期一八年間参議院議員として、中央政界に活躍し四十九年引退した。自由民主党に所属し、議会では予算委員長の重任を果たし、本県の発展にも寄与した。戦後は本県保守党の政界リーダーとして調整役を果たし、後輩や同郷人のために尽くした。清廉潔白で誠実、折目正しい人柄で多くの人々に信頼された。趣味は狩猟、剣道、著書に「楽土から奈落へ」の終荒と百万同胞引揚実録」がある。「満州国五十七年二月十四日、東京都渋谷区代々木の自宅で病没した。九歳。東京都八王子市上川霊園に葬る。一八五三(嘉永6年)生〈明治M年)没ひらばやしちゅうじよ平林忠恕一八九嘉永六年五月五日、高鍋藩上江平原の賜邸に生まれる。幼名丑太郎、通称勇記、父忠園、母は三浦氏で、幼い時に両親を亡くした。生188平林忠恕まれっき頭脳優れ一八歳のとき、落は衆人の中から選び、英学を東京の箕作品似坪、尺振八に学ばせた。時たまたま廃藩となりやむなく帰郷し、句読師補、準訓導となり、郷土の子弟教育に従事したが、明治九年宮崎県地租改正係に転じ、児湯郡書記に任ぜられ、上江村戸長となる。十七年県会議員に当選し、村会議員を兼ね、県会議員に再選された。忠恕はつとに経済に明るく、養蚕業の当地方に適することを洞察し、同志と図り金一、000円のきょ出を約し、飲肥地方から桑苗二万本余を購入し、原苗圃を仕立て、飲肥の人平沼氏を巡回講師に一履い、蚕業を普及させ、養蚕方法も伝習させた。なお製糸座繰機械を購入し、六人の女工に製糸法を伝習させ、大いに実績を上げ、好評を受けた。間もなく高鍋養蚕社長となり、その後繭品評会を開催し生糸輸出に尽力した。同志とともに、士族授産金の借用を政府に願い出て、十七年一万円を借り入れることに成功し、忠恕は推されて頭取となり「高鍋士族授産場」を設立し、製糸事業を始めた。まず製糸業の改善策として、座繰製糸を機械製糸に切り替え、女工の養成を行い、蒸気機関を購入し、五O人繰の製糸機械を据え付け、更に繭購入量の増加を図り、鋭意事業の発展に尽力した。絶えざる努力と苦労のため、ついに病魔の冒すところとなり、翌二十四年四月二目、一一一九歳を一期として逝去した。平原谷坂墓地に葬る。人々はその遣業を追憶