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概要

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物助教となる。元治元年再び命ぜられて古賀謹堂の門に学ぶこと三年、大坂に赴いた。慶応三年春、母蔦子を迎え母子そろって初めて父耳水の墓前に拝した。それより京都を訪うて疫病を患いほとんど死に至ろうとしたねとみたが、十一月ようやく癒えて帰郷した。藩主種肢の近侍となり、明治元年七月明倫堂教授に任ぜられた。同二年十月十二日上下両院が開設されて下院議長を兼ね、同三年十二月権大属に任じ上京して公務に従事した。廃藩置県の後、東京で残務を整理した。五年三月陸軍省出仕に補せられ秘史局分課に勤務し、後に参謀本部編さん課出仕となった。十九年あっせん三月非職となると、兼ねて千葉県令船越衛の斡旋で得た千葉県市原郡大久保村白鳥の広大な仙境に隠棲し、渓流に沿って梅樹数千本を植栽していん梅ケ瀬と称し、みずから「梅瀬仙客」と号し、漢詩一O首と「引」(文体の一、序のごとし)を賦し、四方の文人にその志を示した。それから広大な地域の開発に努め、田畑を開墾し山野に牛羊を放牧し、各河川に稚魚を放流し、池を造って養魚を行い、更に皇室御料地二二九町歩余の原野を借りて徐々に植林した。後年隣村民に分譲し、また七五町歩を購入し、林道をも通じて近村に余沢を与えたという。明治二十一年、官許を得て私塾梅瀬書堂と八O名収容の寄宿舎を建て、地方の青年の一般教育に当たり、同三十五年閉鎖するに至るまで、君津、市原、長生、山武、夷隅五郡の子弟およそ千人を世に送った。いずれも先生の高風を慕って集まった者で、かの小湊鉄道開設功労者の永島勘左衛門も梅門の一人である。誠実は性剛直仁慈、武士に二言なしが平素の語で口に出せば必ず実行人した。博覧強記、多能多芸、詩文はもとより、和歌俳句、書道、墨画、第8編装刻に特異の才能を持ち、横笛、尺八、三味線、囲碁、将棋、いずれも一流をなし、詩は詠史に優れた見識を見ることができる。書は顔真卿より出でて顔法を脱し、みずから一家を成し、明倫堂教授のころから儀一流と称せられた。その文と書の見るべきものに高鍋高校前庭に立つ「清観公碑」がある。その交友と門下に、詩と書をもって天下に称せられるゆえな者の多いのも故無しとしない。その交友に、長三洲・川田剛・重野安緯・張滋防・秋月古香・秋月橘門・同天放父子・中村正直・谷謹一郎・堤長発・坂田素行(奏)・巌谷一六そのほか数十名がある。門下生の著名な者に三好退蔵(大審院長)・木間瀬柔三・日高秩父(固定教科書、書き方手本筆者)・鈴木重治・清原真剣(いずれも海軍大軍これよし医)・中村道貫・河野虎衛がある。大山巌・山県有朋・松方正義の築刻は頼まれて刻した梅瀬の作という。大正四年八月二十四日、梅ケ瀬に没し遺言により千葉県鷹取山頭に葬まざねる。享年八O歳。三子があり、長男は真実といい、日本の最初の教育学者で東京大学教授、明治二十七年没、二男早世、=一男醸三郎(実業家)。梅瀬の著書は数十種ある。主なものは近古戦記(一五冊)、復讐録(一冊)、梅瀬雅集(二冊〉、独僑楼吟稿(三冊)、奇聞集(一冊)、仙台支傾録(一冊)、桃山報響記(一冊)など。平島敏夫一(明治M年)生一九八二(昭和町年)没一八九高鍋町出身のまれに見る清廉潔白の政治家である。明治二十四年十一月四日、高鍋町小丸下、平島重綱の長男に生まれる。幼少から秀才の声高く、高鍋学校から宮崎中学校入学、学校推薦として第一高等学校に入学、優秀な成績で卒業、大正四年東京帝国大学英法科入学、同校卒業の際成績優秀恩賜銀時計の栄誉に浴した。直ちに内務省内務書記官、明治神宮造営局書記官となり、神宮造営に尽力。十一年台湾総督府事務官、1187