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概要

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物一八一五(文化ロ年〉生一八七一(明治4年)没蔦子は文化十二年十二月五日、美・4津の荒川利貞の長女として生まかるよしこおりはれ、幼名は嘉留、また好子といい、後、蔦子と改め、また織葉とも称したまきしようていた。父利貞は通称を環と名のり、俳号を噺亭という。漢学を修め、長じて医を学んだ。多才で趣味多く、度量が広く、多くの人と交わり、よく人の世話をした。まだ若い日高明実に漢学を教え、その人物、才幹に感心して、娘の蔦子を嫁がせた。蔦子は恵まれた家庭に生まれ育ち、才色兼備の女性であった。坂田奏の筆になる日高晴人荒川氏墓銘に「為ν人柔順貞節、好ニ読書一、或至ニ子通宵v忘眠、真為ニ儒家配偶一失」と述べている。夫の明実はその略伝に述べたとおり、学聞に秀でて詩文に優れ、静かで思いやりのある人間性の豊かな人であった。しかし飽くことのない研究心を持ち遠く大坂に行き、不幸にもわずか三九歳の若さで病のぷざね没してしまった。当時蔦子は三三歳、長男誠実は一一歳、次男来助は五歳、遠く離れて夫の臨終を見取ることもできず、幼児を抱いて悲嘆骨髄に徹する思いを浪華の空にはせた。三男鵠千代は五か月後に生まれ、間あらたまもなく亡くなった。重ね重ねの不幸であった。明笑は病勢革るとき、のぷざね「我ついに君思に報ゆる能はず、願わくは児誠実学成るの後、父に代りゅうめ〈て優握に酬い奉るベし」と伝えることをかたわらの者に頼んだという。蔦子は朝夕夫の墓を拝することを願ったが、その養育に歳月を移し、日高蔦子人第8編喜一憂皆その感懐を歌に詠んだ。高鍋の婦女子も幾人か歌を習う者もあった。うつし見る鏡の影も曇るかな暗き心を嘆くあまりに夫亡きころの詠であろう。子供の教育については毅然とした態度で臨み、しかも深い愛情をたたえていた。物学びにまからんとする子に詠みてつかわしける心ざすかしこき道に関の戸の幾重ありとも越えて進めよ東に学びにまかれる次の子のよみておくりける歌の返しに心ざす道の奥まで尋ね得て帰らん時を待つベかりけり慶応三年、業成って故郷に帰ろうとする長男誠実に呼ばれ、大坂で落ち合って亡夫の墓にもうでた。その旅日記を歌を交じえて書、きつづったのが「此花日記一巻」である。慶応三年一月二十四日高鍋を発ち、二月九日難波の港に着き、その日の夕暮れに墓にもうでている。1186世へだつる震の谷の深くして問へどこたえもなくばかりなり長男誠実は藩校明倫堂教授となり、次男来助は名門鈴木家を継ぎ、戊辰戦争に高鍋隊隊長となり関川の戦に戦傷を負い新潟病院で亡くなった。誠実の長男真実(教育学者)も幼時蔦子の蒸陶を受けた。蔦子は明治四年七月二十八日、上江村高月で五七歳の生涯を終わった。墓は元紙園墓地にある。ひだかのぷざね日高誠実一八一三ハ(天保7年〉生一九一五(大正4年)没天保七年二月二十九日、父明日高誠実実、母蔦子の長男として美々津に生まれた。幼名は鶴太郎、後源一郎、更に儀一に改める。詩は誠実、如淵・毅窓・梅瀬・梅瀬仙客・独侍楼と号した。天保十三年四月父に従って高鍋に移り明倫堂に学び、一三歳で成績優秀により白銀五両の褒美を受けた。一一一歳のとき江戸に遊学し古賀謹堂に師事すること七年、文久二年帰郷して明倫堂