ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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県選挙管理委員として町政から広く県政に至るまで、終始一貫、誠実精励の人であった。三十五年四月三日、町政六十周年記念式典に当たり、高鍋町最初の名誉町民に推戴された。三十八年九月二十七日、八三歳の高齢で死去。墓は道具小路の田の上墓地にある。ひ525一八O九(文化6年〉生日高明実一八四七(弘化4年〉没たかしとうけいじすい明実、またの名は呆、字は東卿、謙三と称した。耳水は美々川をもじあんそどうった号である。堂号を安素堂という。文化六年(月日不詳)美々津に生せきぷねまれた。父祖は皆高鍋藩主の関船の船頭で、乗太夫または善太夫を襲名かんか〈かちした。家禄は三十七石五斗程度で、身分は初め間格、後徒士となった。父実義は吟竜と号し和歌俳譜に長じていた。謙三は一ムハ歳のとき、父に請うて乗船を辞し、学問に専念することになり、荒川噺亭に漢学を学んだ。噺亭は天明五年美々津に生まれ、曹はたまき利貞、通称を環といい、早く漢学を学び、長じて医学を学び、産科に長じた。多才で趣味が多く、訪れる人も多い文化人であった。謙三の人物と才幹に感じ、娘蔦子をめあわせることを望み、蔦子は後にその妻となった。蔦子は和歌をよくした。謙三は、文政十三年三月三日、鳥原玄竜の紹介で豊後国日田の淡窓広瀬求馬の威宜固に入門し、平野五岳、秩月橘門とともにその領袖と称せられた。藩主種任はその名を聞き、天保六物年域外のお仮屋に召し置き、明倫堂教授の勧告により天保八年=一月江戸の古賀伺庵に入門させた。謙三はそこで稲垣研獄、津田質堂、江木鰐水らと親しんだ。水野忠邦は当時老中であったが、謙三の名声を聞き、扶持百石をもって召し抱えようとした。しかし辞して受けず、天保十三年四月二十二日高鍋に帰り、明倫堂助教となり、中小姓五人扶持を給せら人第8編れた。翌十四年十二月十日小給に昇進し教授に任ぜられた。謙三は折衷学派を学んだうえに、高鍋藩の学統である闇斎学にも通じ、新知識をもって指導に当たったので明倫堂の学風は一変したといわれる。しかし謙三はなお足れりとせず、弘化三年大坂に出て篠崎小竹に師事しようとしけんさんた。小竹は師の礼を受けず、ともに研鎖に努めようと朋友の礼をもって遇した。その年の七月二日、幕府は審主種任に勅使御馳走役を命じた。藩侯は種々考慮の末、謙三耳水を呼んで、この大役の差図をさせることにした。耳水は藩主の信任にこたえ、よくその大任を果たし、再び大坂に帰り学聞に励んだ。翌年二月江戸の古賀桐庵の死が伝えられた。耳水は大層悲しみ、痛突して人目をはばからなかったという。それより間もなく疫疾を得て、二月二十七日大坂の藩邸で没した。享年三九歳。大坂寺町の浄園寺に葬った。成宜園での同学秋月橘門に「耳水日高東卿を訪ぼうひ、賦して呈す」という長詩がある。耳水の風貌を次のごとく表現している。「多くの人が、君は穏やかで心は強く、がさつをにくみ、心を潜めて沈黙を愛するという。殺には心をこめてつかえ心から楽しませるようにし、事に当たっては細心の注意を払い、一日一事をきめては堅く守り、道を踏むを自分の天職とし、名利を求めることはなかった」と評し、更に「その両限は清く澄み、東山に旭日をささげるごとくである」ほうふつと賛嘆している。岡山子の表現だけに初練たるものがある。詩賦を好み、文を作れば千言たちどころになり、室田もまた巧みであった。中央から遠うんおうく、若くして亡くなったためにその殖奥を知る者は、明倫堂教授綾部姥のぷ吉ね南順輔、横尾敬ら数人にすぎなかった。三男一女があり、長男誠実は明倫堂教授となり、次男来助は鈴木家を継ぎ、三男の鵠千代と衆子は早世した。著書に「耳水遺稿」「安素堂遺稿抄」がある。墓は高鍋町元紙園墓地に改葬された。1185