ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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物得、甲府市風間製糸工場で製糸技術を修業、大木羽二重織工場で羽二重織りを修業し、刻苦精励約二か年で優秀な研修成果を上げてほかの=一人とともに帰郷した。帰郷後は都農村内はもとより、近隣町村に伝習講師として招かれ、三十年晩秋には水車式動力の座繰製糸工場や羽二重織工場も繰業開始、新入女工の技術指導にも著しい成果を上げた。クラは都農小学校長河野貞敏に見込まれ、その媒酌で、後に高鍋小学校長となった則松松太郎と結婚して高鍋に移り、長女徳の母となった。A第8編望まれて、当時県内最大といわれた高鍋製糸会社の婦教となったが、その勝気で率先垂範の教育指導で、おおぜいの女工たちを明朗かつ意欲的に育て上げた。その四十数年に及ぶ製糸業界への貢献は多大であり、高鍋産業婦人会のリーダーとして活躍した。家にあっては農業経営の中心となり、養蚕・養鶏・養豚と多角経営の才能を発揮し、家族の着物は晴れ着の羽織・袴に至るまで、すべてグラの手織りであり、よく名校長の夫を助けて青年教育に尽力した。クラは各界からたびたび表彰を受けているが、昭和十年(一九三五)南九州陸軍特別大演習が行われたとき、広幅羽二重を織り、天皇に献上する光栄に浴したことは、その生涯で最も輝かしい事であった。クラは昭和三十二年(一九五七)九月二十二日、た。その墓は大字北高鍋砂子田墓地にある。一八八一(明治M年〉生一九六三(昭和お年)没八O歳で生涯を閉じ原Eひろし坦明治十四年六月二十日、宮崎県児湯郡高鍋村大字北高鍋三、四九一番地のイ、父原重次、母セイの二男として生まれる。高鍋小学校を終え同三十二年四月創設当時の宮崎県立宮崎農学校に入学、三十五年三月卒一年志願兵となり、三十七年八月、日露戦争に従軍、同年十月陸軍歩兵少尉に任ぜられ正八位に叙せられ、功により勲六等功五級に叙せられた。四十一年四月北諸県郡農業技手。四十三年四月高鍋町書記、大正六年六月高鍋町助役。十年二月に町長に当選、以後昭和九年三月まで町長在職一三年余、世界大恐慌のなかにあって困難な町政の進展に努め、児湯郡自治会長としても在任八か年鋭意その運営に当たり、九年八月後任理事長から感謝状を受けている。同十一年九月児湯郡畜産組合長に選ばれ、通算一三年余畜産共進会の開催に尽くし、十七年七月からは馬匹組合長となり、軍馬の育成供出に寄与し、本県畜産の振興に尽すいし、日本馬事会頭の感謝状や県知事の表彰を受けた。業、184土日原大正十一年、児湯郡内に県立中学校設立の議が起こり、東西激しく争奪論争、県議会の議決の僅少の差で妻町設立に決まると、原坦は東部七か町村と謀り財団法人高鍋中学校を設立、天下に文教高鍋の意気を示し、理事に選ばれ、不況のさなかにあって学校運営の苦難時代を切り抜け、昭和十八年四月ついに県立移管に成功した。昭和二年九月宮崎県会議員当選三回、合計二二年余り戦時下至難な県政に対処し、終戦後の混乱期にも県政に鋭意献身した。同七年四月児湯郡養蚕業組合長に選ばれて一一年間、十四年五月児湯郡農会長、十八年十二月県農業会児湯支部長となり農会運営に貢献。終戦前後九年間は町会議員、二十二年五月から宮崎県監査委員、二十四年十一月からは宮崎