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概要

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が上下に広がるようになった。有量は御典医森心安の子元吉を養子とし、これを享保十年(一七二五〉京都へ自費遊学させることを願い出た。藩ではこれを許可したばかりではなく、修業中一か年につき小判三雨、当時としては高額の学費を支給した。元士口は名著「南狩録」の著者で尊王家の味池修居の家に寄寓し、闇斎門下の三傑の一人三宅尚斎について学び、=一年の後に帰落した。藩主種弘、種美、種茂に近侍し、かたわら藩士の子弟の指導に当たり、累進して給人に列した。山崎闇斎派の学は、内藤父子、久右衛門と元吉によって高鍋に行われるようになった。元吉は、性謹直でしかも酒を好んだが、藩主に近侍する聞は酒杯を執らず、勤めをやめて初めて大杯を傾け快飲して日く、願わくは再び公用なかれと。世人は大いに驚き「元吉どんの下戸」と称した。室は坂田氏、嫡子、進有恒は明倫堂師範となった。安、氷九年二月二日没した。享年七六歳。墓は安養寺墓地にある。ながと・もかんえもん長友勘右衛門出生年年不詳没勘右衛門は慶長、元和のころ藩主種長に仕え偉功のあった人。初め石河内(現木城町)福永神社付近に居住していた。ある日高鍋・上江両村の地勢を視察し、畑田一帯から東方の畑地に用水路を敷設して農家の増収と藩財政を豊かにすることを思い立ち、日ごろ信仰する比木大明神に百物日参りの成就祈願を行い、満願の日の神託のままに水源地や水路の適地人を調査し、設計書を添えて藩主に用水路開設を進言した。藩主は喜んでこれを許し、工事監督役を命じた。勘右衛門は一意専心寝食を忘れて工事の成就に努め、慶長十七年(一六一二〉春ついに太平寺用水路を完成、太平寺・畑田・中鶴地区一帯の畑地の水田化に成功した。幹線水路約五キロ、受益面積約一八O町歩(約一八Oヘクタール)に及んだ。第8編その豊かな用水は単にかんがい用水だけでなく、幾度も大火災に泣いた高鍋にとって、防火用非常用水となり日常雑用水として喜ばれた。藩主はこの偉業を賞し、高鍋町下町に屋敷を与え、禄五十石を給し、かちいでのカみひきでぐち徒土格をもって遇し、井手神、挽木出口など数か所の田地を与え、特にさんじゃくお勤め御免とされたが、禄半高の辞退を願い出て催司役(吉事のみ〉を勤めた。子孫代々下町に住み永友の姓を名のっている。毎年九月の比木きとうみこし神社のお里回りには「太平寺井手祈祷」として神輿を迎え、自家製の濁かぐらはらいり酒や種々の供物を捧げ、神楽数番を奏し、歴代の家主がお放を受けて奉拝し、終わって神官一同着座し、恒例の繕部会}供するならわしとなっている。勘右衛門の墓は道具小路の元祇園墓地にあり約一メートルの自然石に「先祖長友勘右衛門墓」と銘されていたが、改葬されて現在はその姿はない。なお舞鶴公園岩坂御門跡の南に、「長友勘右衛門君水路功績記念碑」が建立されている。則松クラ(旧姓河野)一八七八(明治日年)生一九五七(昭和也年〉没明治十一年一月二十六日、児湯郡都農村大字都農町、父河野亀七、母サカの長女として生まれる。後に宮崎大学農学部教授とな買IJ松クラった河野成助はその末弟である。二十八年(一八九五〉都農村が殖産興業のため、山梨県に養蚕・はたおり製糸・機織(羽二重〉の伝習生男子三人・女子四人を派遣するに当た183り、芳紀一九歳の若さで率先これに加わり、東山梨七里村で養蚕を修