ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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物堤発え高く、矢野タニ子と結婚、長子は長述である。明治二年、東京大学(元の昌平聾)に入学、勉学衆にぬきんで、在学四五二人中から選ばれて寮長となった。人長第8編宅、廃藩の後宮崎県に出仕、学務を担当し、かたわら宮崎学校の教師となる。九年八月宮崎県廃止により、十年一月千葉県属となり、翌十一年大蔵省に出仕し銀行事務を担当、十四年調査局に移り予算事務を担当した。二十年十二月東京控訴院書記官となり、二十三年裁判所書記長となった(年俸一、000円)。二十五年七月、郷里の期待を受けて前途有為の官途を去って児湯郡長(年俸六OO円)に就任した。在任五年余り、専ら郡内の教育振興、産業開発に尽くし貢献するところが大きかった。在京の日、三好退蔵らと高鍋郷友会を創始し、在京郷友の親睦を厚くし、同郷学生の指導に努めた。三十年宮崎農工銀行の創設さるるに当たり、衆望を負うて頭取となり、以来大正八年七月その職を辞するまで勤続実に二二年有半、誠実もって終始一日のごとく行務に精励し、県下の殖産興業に甚大なる功を致し、経済界の重鎮となった。明治三十九年一月、日向鉄道期成同盟会を組織し、その会長となり、県下官民一致協同、県民の宿顕であった日豊本線の開通を促進した。高鍋郷党協会を設立してその会長に就任し、先哲祭の創始、高鍋実科高等女学校の県立移管、高鍋中学校創設、高鍋町・上江村の合併などに努力して偉功があった。敬神崇祖・忠君愛国の念殊にあっく、家にあっては誠実一貫、養親に孝養を尽くした。老後は東京に移り、その子長述のもとに静養していたが、昭和二年九月二十七日眠るがごとく安らかに長逝。享年七九歳、学殖深く、詩文に長じ、書をよくし遺作が多い。墓は安養寺墓地にある。182一七三八(元文3年〉生一七九二(寛政4年)没ありのり元文三年八月十八日、父は元吉有全、母は坂田氏の長男として生まれる。安永四年財津十郎兵衛官恵とともに、人材養成のために、廉之屋敷稽古所とは別に学校を設立することの必要を藩主種茂に進言したが、折あしく数年来、大風雨や早害、あるいは虫害などが打ち続き財政も困難な折であり見送られた。安永六年七月千手八太郎が重ねて学校を設立し人材養成の必要を力説進言するに及び、ようやく学校を設立することになり安永七年明倫堂が完成した。有恒は安、氷十年二月、稽古改役並びに明倫堂師範に任ぜられた。同年間五月稽古改役を免ぜられ、学校師範として教育に専念し、天明六年二月町奉行に任ぜられるに及び学校師範を免ぜられた。寛政四年十一月十九日、病没。享年五五歳。墓は安養寺墓地にある。ないとうありつね内藤有恒ないとうげんき私内藤元吉一七O五(宝永2年)生一七八O(安永9年)没宝永二年一月九日生。父は胤ハ医森心安、母は荒木氏。誇は有全。通称ありかず元吉、内藤久右衛門有量の養子となった。有量は元、京都の商人で高鍋ぞうけい藩の用達であったが、山崎闇斎派の儒学の造詣が深く、藩主種弘は五人扶持を給してその教えを受け、後には扶持のうえに金一O両を贈り、高鍋下向を求めていた。有量は正徳二年(一七一二)高鍋に来り、御書院番となり、定日に藩主に経学を進講し、家臣にも傍聴を許し、好学の風