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概要

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出席し、総奉行としては用向のある節だけ出向き、賞罰などの主だった書類だけ披見するよう同役と申し談じ、月番は免除となった。天保五年三月十八日、明倫堂教授をやめ奉行所専任となった。伝えるところによると、ある身分の高い権力者に利用され、その優れた才能を発揮することができなかったという。また明倫堂の五経の訓点は、字井黙斎の訓点はんじようを使用していたが、雄右衛門はこれを煩冗だとし、いっそう簡明な訓点にしようと折衷して五経新註合考案し、既に着手していたのであったが、未完成のまま、天保十四年六月十七日没した。享年五四歳。墓は高鍋から移され、宮崎市の宮崎霊園の田村一族の墓に合葬されている。たむらまさあき一七六四(明和1年)生田村正明一八四一(天保ロ年)没明和元年十月三日生まれる。{子は正明、平太左衛門と称す。父は久右衛門安民。少にして父を失い、祖父轡斎織右衛門に教養された。人となそうびんり極めて聡敏であった。寛政九年六月、山内冨太郎の病気が回復するまで明倫堂教授に任命され、同七月二十六日大目付に昇進し、寛政十一年十一月二十六日奉行役となり、御馬屋中都合から御馬屋稽古中都合となり、享和三年三月七日に手塚源太夫とともに江戸屋敷留守詰となった。文化元年六月十三日、学校稽古所中都合となり、文化二年三月七日、再び江戸屋敷留守詰となったが、同年間八月六日、病気のため退任し、文物化四年一月四日隠居。天保十二年七月一日没した。享年七八歳。墓はもと大竜寺墓地にあったが、現在は宮崎市宮崎霊園の田村一族の墓に合葬されている。人一八三九(天保凶年)生一九O四(明治幻年)没第8編たむらよしかっ田村義勝天保十年三月十二日、高鍋縦筏に父質勝(字は子野、極人と称す)のきえん次男に生まれる。母は綾部氏。通称兵衛、其淵と号した。藩校明倫堂に学びその俊才を注目された城竹窓門下の高足である。江戸に出て安井息軒の門に学ぶ。備中の坂田丈平、肥前の岩崎小次郎らとともに三計塾中の異才と称され、塾頭にあげられた。明治維新の初め、太政官に勤めたが、病のため退職し郷里に帰った。明治五年学制が頒布されて新しく学校教育は発足したが、人材養成に主限を置いた明倫堂以来の教育とは、様相を異にし、特に青年の教育は着手も遅れがちであった。そこへ西南戦争が起こりたちまち県内は戦場化し、教育は休止状態となった。義勝はこうした郷土の教育事態を憂慮し、明治十一年八月、高鍋宮田の三好退蔵(義勝の実弟)旧宅を借り、私塾晩翠学舎を創設した。明倫堂の伝統に立ち、漢学を主要教科に義勝みずから塾の主幹兼教授となり、城勇雄の協力も得て人材の養成に努めた。旧高鍋藩内はもとより、延岡、佐土原、穂北などから来たり学ぶ者多く、優れた人物を世に送り出した。明治十一年、義勝は宮崎県三等訓導となり、翌十二年明倫堂の旧校舎に高鍋学校が開校されると同校の教師も勤めた。しかし明治十八年四月晩翠学舎は高鍋学校に吸収され、同校の漢学部となった。義勝はその後高鍋学校が廃止となる明治三十五年まで漢学の教師として青年子弟の教育に精励した。明治三十七年一月十日病のため没し、漢学者、教育者の一生を閉じた。享年六六歳。墓は竜雲寺墓地にあったが、現在は宮崎市本郷南方の宮崎霊園内、田村家墓地に合葬されている。堤2長主一八四九(嘉永2年〉生一九二七(昭和2年〉没発言高鍋藩士父鈴木百助、母国村克成の長女数子の三男として、大字上江181{子高月に生まれ後同藩士堤長諮問の養子となる。明倫堂に学び篤学の聞こ