ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

ac_cho_0023_takanabe

物あれば養育費を支給し、分家独立に必要な資金を与え、農民を説得する救済策を進め、萩原の米蔵勤務のときは余剰米の自分の取り分を藩に返し、義倉を建て、救農共済の制度を創始し、民政・財政に尽くすところも大きく、六O歳で家絡は小給、家禄四十石に加増されていた。病にかかり職を辞したが藩公は養老料を給し、明倫堂教授をもって過した。資性剛毅、廉直、家は貧しかったがいつこう気にせず、程朱の学を起こそうと勉め、藩主にもこれを勧め、家にあっては終日端座して読書し、学を修め弱行してみずから聖人たることを努め、徳行識見古賢に恥じる所なく、後進の模範であった。その著書に自求録・九州縛故のほか小学・近思録・詩経・書経・易経などの筆記若干部がある。上に英主あり、これを助ける興欽のごとき傑物あり、溶の治績は大いに上がった。文政二年正月三日八二歳で死去。城北安養寺墓地に葬る。墓碑銘「廉斎千手先生墓」側背面に略歴があり、「室人綾部氏合わせ葬る」とある。せんじゅかげおき一七六三(宝暦日年)生千手景興一八三O(天保1年〉没おきかね宝麿十三年八月二十八日、父は千手輿欽、母は綾部氏、その長男とししたみのえおきしげて高鍋村下蓑江に生まれる。幼名は興重、春太郎と称した。父興欽廉斎に就いて学ぶ。宝暦四年間二月十二日高山彦九郎が高鍋に来たときは、蚊はたと口から域下町の旅寵屋に帰る途中で春太郎と相識となり、彦九郎は七月に再び高鍋に来り、春太郎、輿欽を蓑江の自宅に訪ね、春太郎は酒食を人第8編饗して歓待している。文化十二年六月、明倫堂教授であった父輿欽廉斎が病気のため、稽古改役から教授仮役に任ぜられ、同年十二月父に代わり教授本役となり、文政九年三月致仕し、養老料二人扶持を給せられた。春太郎は早くから兵学を修め、軍官となり軍学師範を兼ねた。天保元年十一月十一日に病没した。享年六八歳。安養寺墓地に葬った。た心らかつあき一七O九(宝永6年)生田村克明一七九五(寛政7年)没らんさい幼名金五、長じて新八郎、後に織右衛門と称し、轡斎と号した。父は与三左衛門、母は山田平右衛門の娘、高鍋村宮田に生まれた。若いときけいさいに藩主種弘の参勤に従って江戸に出で、闇斎学派の浅見網斎の門人高木毅斎および津田某について学んだ。寛保三年四月十六日物頭役となり、延享二年七月十日縦筏に屋敷を拝領した。宝麿五年十二月十七日大坂留守居、宝暦十一年六月五日惣奉行兼寺社奉行、同十三年五月十五日用人に登用せられた。同年八月二十七日、大目付以上の役人の子供および小給以上の者の教育のため、廉之屋敷稽古所において講堂百を行うよう、藩主種茂から直接命ぜられ、青少年の教育薫陶に努めた。明和二年七月二十二日、五七歳のとき、病気のため隠居を願い出て許された。夫人は石井氏、一男一女があり、孫正明、曽孫克成はともに明倫堂教授となった。寛政七年一月二十一日没。享年八七歳。墓は宮崎市宮崎霊園に在る。180大塚観澗は克明を評し、明倫堂のまだ建たない以前に本藩の講学をなした中輿の祖であると称揚している。たむらかつなり田村克成一七九O(寛政2年〉生一八四三(天保M年)没寛政二年八月十五日、高鍋筏に生まれる。父は平太左衛門正明。{子は美仲、雄右衛門と称した。克成は幼いときから非凡で、大人のような子であった。才に秀で、学問好きで事務にも練達し、多くの人から将来を嘱望されていた。文政八年七月、明倫堂教授になり、天保四年七月総奉行で寺社兼任となり、明倫堂教授はほかに適任者が無いので日々学校へ