ブックタイトルac_cho_0023_takanabe
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人物略伝人物略伝は、次の選定条件により六八名について作成した。明倫堂の教育を初め、教育に顕著な功労のあった人物。産業経済上、功労顕著な人物。国家社会に対し、功労顕著な人物。文化、福祉そのほか諸般の公益に功労顕著な人物。四物一八六七(慶応3年〉生一九三二(昭和7年)没慶応三年十二月二十八日、新小路秋月家に父良種、母円子の長男として生まれる。幼名は兎太郎、後に復郎といった。号は可山、中ごろ紫こううん明、晩年には友雲を用いた。明治初年東京に出て、麹町番町小学校に通い、更に東京美術学校第一回入学生となった。二十七年七月蒔絵科(初めは漆工科と呼ぶ〉を卒業。二十九年二月から一年余り同校調漆の教師を嘱託された。美術学校が岩手県中尊寺の修復を請け負った際は、その責任者となって重責を果たした。あきづきかざん秋月可山人明治三十三年パリlで万国博覧会が開催されたとき、復郎は同博覧会事務官となってフランスに渡った。後にまた官命を受けて再びフランスに渡り、油絵の研究に従った。第8編テイマiタ帰国後、郵便配達人のカバンに「一T」(明治二十年逓信省中島某考案)うるしを桜花で包んだ図柄をデザインし漆の加工を施した。これが好評を博し人々に親しまれたと伝える。明治四十二年には梨本官邸の漆塗りの内装を担当した。その後、日高秩父(書家〉の推薦によって宮内省に奉職し、主馬寮の御用係りとなった。また皇族御料率製作の監督に招かれ鉄道院で仕事に当たったこともある。大正十三年一月、今上陛下(当時皇太子)御成婚用の漆塗りの馬車製作にも携わり、この車は現皇太子御成婚の際にも使用された。まきえ可山は蒔絵のほか、日本画にもすぐれ、橋本雅邦、川端玉章の北画にかてい学び、更に滝和亭、野口幽谷の南画を吸収し、荒木寛畝、高島北海の長所を取り入れ、花鳥山水に独自の画境を成就し、人物画も巧みであった。昭和七年六月二十九日死去。享年六六歳。東京都府中市多摩霊園に眠る。島きづきさつお秋月左都夫一八五八(安政5年)生一九四五(昭和初年)没たね外交官。父は高鍋藩家老秩月種節、母は鈴木百助の長女久子、その三男として高鍋町筏小路に生まれ、幼名を六三郎と言い、毅堂と号した。鈴木馬左也の兄である。藩校明倫堂、鹿児島医学校に学び、司法省法学校卒業。ベルギー・ドイツに留学し、明治二十五年(一八九二〉外務省参事官となった。しば秋月左都夫1153らく帝国大学で国際法を講じたが、再び外交官となり、フ-フンス・ロシ