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概要

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いみな生まれた。母は荒川氏。幼名を虎街、詩は衛房、字は夢虎、牧山と号した。少年のころから文才があり、英気優れ藩主秋月種肢の命を受け、壷井芳洲について蘭学を修め、安井息軒、田口江村に漢学を学んだ。惣奉行鈴木百助の養子となり鈴木家を継ぎ、早くから勤王の志を抱いていた。藩内の丘一制改革や砲塁の建設に参画する一方、薩摩藩そのほかと往来して、落のため修好の実現を図った。慶応三年(一八六七〉十二月、薩藩脇田市郎の江戸脱出に便宜を図り、水筑弦太郎とともに幕吏に捕えられ、江戸伝馬町の獄につながれた。翌年二月五日に出獄するが弦太郎は病死する。来助は助かって京に上った。当時高鍋藩は北越出征の命を受けていたので、武藤東四郎を総指揮に高鍋隊が編成され、来助は隊長の重任を負い新潟、山形の各地に転戦し武勲を立てる。新潟県北部の戦闘で小隊長福崎良一が帰らず山中を探したが、銃弾を受け割腹していた。そのとき次の詩を作った。雲外ノ半峰一一羽州ヲ見ル。懸軍スナハチ覚ユ路程ノ悠ナルヲ。昨日戦場ノ人未ダ返ラズ。働突シテ山中一一間模ヲ求ム。物圧内藩関川の激戦では、率先危難を冒して奮戦し、敵障を奪ったが、自身も重傷を負い明治元年十月五日、新潟野戦病院で没した。享年二七歳。大正五年十二月、その功績に対し従五位の追贈があり、同八年一月鈴木馬左也が主催し墓前奉告祭を行った。墓は高鍋町上江の谷坂、戊辰の役戦没者招魂墓地にある。人一七三七(元文2年)生一八一九(文政2年)没第8編せんじゅおきかね千手輿欽名を八太郎と称し、幼名孝之進、字は一静、廉斎と号した。祖先は筑前千手村に住し秋月氏に仕え、高鍋に従った。代々給人、物頭を勤め俸禄百石の上士の家格であったが、父興応故あって家禄を奪われ、その子輿欽は十五石を給されたが幼年の故をもって禄は半減。やがて母(河辺氏)の喪に遭い窮乏を極めた。職に就いても公務の余暇に農耕に従事し、かたわら藩の儒者内藤有全(元士口)に学んだ。論語の「位無きを憂えず学なきを憂う」の講義を聴き、憤然大いに発奮し学に励んだ。二O歳で藩主の江戸勤務に従って出府し、朱子学派の宇井黙斎の門弟となり、勉学すること三年。業終わって帰藩するに当たり、黙斎は興欽のため一憐怠ふくよう一生便自暴自棄」の一書を贈った。興欽これを服腐してますます勉学、その後江戸勤めのたびに宇井先生の教えを受けた。衣食を節約して謝礼や筆紙の費用に充て、自己を律するに極めて厳格であった。二八歳で中小姓に立身二十石を給された。興欽は綾部氏をめとり三男四女をあげたげんぞくが、両親の食膳は常に豊かに孝養に努め、弟を還俗させて黙斎先生の門に学ばせた。その弟興容が病床につくと自分の衣服を売って薬代に替え、葬儀の費用に充てた。父興応にも孝養至らざるなく、その喪に服して七日間の初喪は礼服をつけて過ごし、寝床に就かず、後三年間は心喪に服した。興欽は種美、種茂、種徳、種任の四代に仕えて偉功があったが、安永六年(一七七七)六月十七日八太郎四O歳種茂三五歳のとき、学校を設けて文教を奨励するようにと建議(存じ寄り)した。藩公は即日この建興議欽をは用四い四て歳学で校野のを別J ~設府ぅ付代官「明倫堂」と称して興欽をその教授に任じた。五一歳で福嶋山西代官、五二歳で福嶋総代代官に任ぜられたが、社倉を設けて貧窮のときに備えることを建議してまぴ「間引き」が行われているし、許され、貧民は子を産むも育成し難く、1179土地は広いが刺す者が少ないのを憂え、藩主に建言して農民三人以上子